Saving Mr. Banks


ウォルト・ディズニーの約束  (2013年12月)

「ウォルト・ディズニーの約束」は、全世界に親しまれているディズニー映画のクラシック、「メリー・ポピンズ (Mary Poppins)」製作の舞台裏を描く実話の映像化だ。因みに原題の「Saving Mr. Banks」のミスター・バンクスとは、ポピンズが仕えるバンクス家の主で、「メリー・ポピンズ」ではデイヴィッド・トムリンソンが演じた、気難しそうでいて小心っぽい味のあるキャラクターだ。


「メリー・ポピンズ」原作者のトラヴァースは、メリー・ポピンズが見せる陽気さとは対極にいる気難しく扱いにくい女性だった。ディズニー側が提出する映画化に当たってのアイディアのことごとくに反対、曰く「メリー・ポピンズ」はミュージカルではない、作品内にアニメーションを入れるなんてもってのほか、メリー・ポピンズにキャスティングされたジュリー・アンドリュースはイメージに合わない、ディック・ヴァン・ダイクなんか大っ嫌い、と、とにかくあることないこと難癖つけて、ディズニーを閉口させた。


トラヴァースは実は英国人ではなくオーストラリア人で、父がほとんどアル中となって死に、母とは反りが合わないなど、仕合わせとは言い難い幼少期を送った。当然「メリー・ポピンズ」原作にはそれが投影されており、映画しか知らない者には意外だが、原作はもっとシニカルで、メリー・ポピンズは小柄で皮肉の効いた人物造型がされているそうだ。悪魔的と評している媒体もあった。要するに、我々がアンドリュースに対して持っているイメージとはほぼ正反対に近い。これではたとえトラヴァースでなくても、これだけ自分の作品のイメージとは異なるキャスティングをされたら、映像化に同意したくなくなる気持ちもわかる。


それが現在我々が知っているようなシュガー・コートされたメリー・ポピンズになったのは、ひとえにディズニーの功罪だ。それにしても原作を読んでいるディズニーが、それでもアンドリュース主演で「メリー・ポピンズ」を作ろうと思い、そして世界中で当てた、そのビジネス才覚を誉めるべきか。実際の話、「チム・チム・チェリー (Chim Chim Cher-ee)」とか「レッツ・ゴー・フライ・ア・カイト (Let's Go Fly a Kite)」なんて、ほとんど世界中の人間が知ってるんじゃないか。その「レッツ・ゴー・フライ・ア・カイト」が、実はトラヴァースが最も忌み嫌った歌だそうだ。


たぶん原作は、いわばロアルド・ダールが書く子供向け作品のようなものではないかと推測する。「チャーリーとチョコレート工場 (Charlie and the Chocolate Factory)」のような、結構子供の恐怖心を刺激する、悪夢的なイメージが付随してくるのではないか。例えばおいたをした子供へのお仕置きがきついとか。それが逆に子供にアピールする。しかしもちろん、ディズニー映画ではそういう風にはならない。


原作がそういう作品だったとしたら、ジュリー・アンドリュースがポピンズにキャスティングされたと聞いて、そうじゃないと憤っただろうトラヴァースの気持ちもわからないではない。とはいえディズニー側のアイディアのことごとくに頑強に首を縦に振らないトラヴァースも、あまりにも偏狭でまるで大人げない。


トラヴァースのそういったとっつきにくい性格は、幼少時代の経験と大きく関係していた。「ウォルト・ディズニーの約束」は、1961年、ディズニー・スタジオを訪れたトラヴァースと、彼女が幼少期を過ごしたオーストラリア時代の原体験を交互に描く。


トラヴァースの父トラヴィスは、完全に大人になり切れなかった今だに夢見る青年で、結局家を売り払ってどんどん僻地へと家族共々流れて行かざるを得ず、アルコールに逃避する毎日だった。しかしそのため子供たちとは相性がよく、トラヴァースは父のことが大好きだった。一方、母のマーガレットは心を鬼にしてトラヴィスからアルコールを取り上げて隠そうとするが、トラヴァースはわざわざそのアルコールを見つけ出して父に渡してしまう。むろん母とトラヴァースの関係は良好とは言い難かった。


トラヴィスをコリン・ファレルが、マーガレットをルース・ウィルソンが演じており、特にウィルソンは前作が西部開拓ものの「ローン・レンジャー (The Lone Ranger)」だったということもあり、なんか、荒野に立つ女性という印象が定着しつつある。そういやあれもディズニー映画だった。


上で「チャーリーとチョコレート工場」を思い出すというようなことを書いたが、実は子供向け作品を映像化した裏話というと、真っ先に思い出すのは「ネバーランド (Finding Neverland)」だ。「ネバーランド」では、作品をものにしたのは大人になりきれない父の方で、「ディズニーの約束」では頼りない父の娘が作家になった。両作品において最も報われないのは現実不適応の夫を持った妻で、これが現代ならこんな使えない夫なんかさっさと見切りをつけて子供と一緒に家を出て行けばいいが、一般的な主婦には手に職のない当時は、耐え忍ぶしかなかった。作家となって扶養される側ではなくなったトラヴァースは、学習していると言える。


そんな幼少時代を送ったトラヴァースにとって、常にポジティヴで甘ったるいディズニー映画は、まったくアピールするものではなかった。とにかくなんでここまで? と思うくらい映像化を目の敵にする。映画の最後にはディズニーのスタジオにやってきたトラヴァースが、ああでもないこうでもないととにかくいちゃもんつけまくった当時の会話を録音した、現実の録音テープが再生される。映画で描かれるトラヴァースのヤな女振りにはまったく誇張はなかったことがわかる。


一方、トラヴァースは扱いにくい女ではあるが、実は一見ソフトな人当たりのウォルト・ディズニーもひとかどのビジネスマンだった。ディズニーはあれこれ難癖つけるトラヴァースをなだめたりすかしたりしてやっと映画の完成にこぎつける。プレミア上映ではさすがに自分自身の中で一つのけりをつけたのか、思わず涙ぐむトラヴァースがいるが、しかし、現実はそうではなかった。完成した映画を見たトラヴァースが、ディズニーに、まず最初にカットするべきはアニメーションねと言うと、ディズニーは彼女に対し、もう船は航海に出てしまったんだ、と相手にしなかったそうだ。いったん映像化してしまえば、その後トラヴァースに口出しさせるつもりはディズニーにはさらさらなかった。こいつもとんだ食わせ者だ。さらにその完成した作品のプレミア上映には、実は原作者であるトラヴァースは招待されていなかった。それを知ったトラヴァースは、招待状がないのにもかかわらず、単身またLAに舞い戻って会場入りしていた。


とまあ、ディズニー映画はやはりディズニー映画だったというのが、「ウォルト・ディズニーの約束」になっている。しかしこの邦題は、ディズニーが娘たちに対して、「メリー・ポピンズ」を映画にするよとした約束のことを言っているのだろうか。トラヴァースに対してディズニーが請け負ったことは、ほとんど守られなかったと思う。本当は「ウォルト・ディズニーの反故にした約束」という意味なのだろうか。


まったく話は変わるが、企業としてのディズニーは今でも人使いが荒いことで有名で、支払いはともかく条件は悪く、できるならディズニーとは仕事したくないと、うちの女房の同僚の彼氏で、ディズニーで働いたこともあるカメラマンは言っていたそうだ。かなりブラックらしい。ビジネスを徹底的に追求するから理想も追えるということか。


映画に戻るが、トラヴァースはバイ・セクシャルで男性とも女性とも付き合いがあり、自身は子供を産んでいないが、男の子の養子を育てている。そういうことも彼女の言動に大きな影響を与えていないわけはないが、映画ではその時のプライヴェイトな部分はばっさりと切り捨てられ、「今」と「幼少時」のトラヴァースしかいない。養子の子は実は双子で、自分にそっくりの兄 (弟) がいることを知らず、トラヴァースを実の母と信じて育った。それがある時偶然パプで自分と瓜二つの男と出会い、驚愕した。「ディズニーの約束」が「メリー・ポピンズ」製作舞台裏秘話として現在と幼少期のみに時代を絞り込みたかったのはわかるが、やはりそういうプライヴェイトな逸話にも印象的なものがあるなあと思うのだった。










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1961年、ウォルト・ディズニー (トム・ハンクス) は子供向け図書のベストセラー「メリー・ポピンズ」製作を企画、ロンドン在住の原作者のP. L. トラヴァース (エマ・トンプソン) をハリウッドのスタジオに招く。トラヴァースは「メリー・ポピンズ」の映画化に乗り気ではなかったが、生活は特に潤っていたわけでもなく、招待を受ける。気難しいトラヴァースは、「メリー・ポピンズ」映像化に当たってドン (ブラッドリー・ホイットフォード)、ロバート (B. J. ノヴァク)、リチャード (ジェイソン・シュワーツマン) らが捻り出すアイディアのことごとくに反対、企画は暗礁に乗り上げる。トラヴァースはロンドンに帰ってしまい、ウォルトも彼女を追ってロンドンに飛ぶが‥‥


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