Sarah's Key (Elle s'appelait Sarah)


サラの鍵  (2011年9月)

2009年パリ。ジャーナリストのジュリア (クリスティン・スコット・トーマス) は1942年のパリで、フランスがナチのユダヤ人迫害に荷担したため強制収容所送りになったユダヤ人のスタージンスキー一家が住んでいたアパートに住むことになる。奇しき縁でスタージンスキー家のことを調べ始めたジュリアは、彼らが連行される日、10歳の娘サラ (メリュジーヌ・マヤンス) が弟を助けようとしてクローゼットに閉じ込め、鍵をかけたことを知る。しかしスタージンスキー家はそのまま収容所送りになってしまったため、弟はクローゼットに閉じ込められたまま、サラたちは家に帰れなくなってしまう。そのまま収容所で両親とも離ればなれになったサラは、弟を助けるため脱走を決意する。一方、現在これらの過去を調べ始めたジュリアは、真実を公にすることが必ずしも自分を含めた皆を仕合わせにすることにはならないと薄々とは感づきながらも、ジャーナリストとしての使命感によって一つ一つ隠されたヴェイルを剥がしていく‥‥


___________________________________________________________

なぜだか先週に引き続き今週もナチ-ユダヤ関係の作品だ。本当はスティーヴン・ソダーバーグの「コンテイジョン (Contagion)」を見るつもりだったが、家内が先週マンハッタンで自転車に激突されて派手に転び、ケツから腿にかけて、こんなにでかい青タン生まれて初めて見たというくらいすごくでかい青タン作ってしまった。


信号が青だからと左右に注意しないで車道に足を踏み出したら、そこに猛スピードでちゃりんこに乗ったアミーゴが突っ込んできたらしい。気がついたら車道に倒れていたそうだ。マンハッタンでは誰も信号なんか守らないから、信号ではなく左右を見て歩けと日頃からあんなに言っているのに、これだ。


NYでは今、ブルーンバーグ市長が市内の交通緩和のために、市民にクルマではなくちゃりんこの使用を奨励しており、実際その効果もあって、最近ちゃりんこで市内を移動する者が大きく増えたのだが、同時に無法ちゃりんかーも増えた。元々ニューヨーカーは信号を守らないが、ちゃりんこに乗っている者も信号を守らないため、近年、歩行者とちゃりんこ間の衝突事故が激増して社会問題になっている。うちの女房もその犠牲者の一人となったわけだ。ちゃりんこの事故とはいえ、打ち所が悪くて死亡した歩行者の例もある。


いずれにしても家内はおかげで歩くのもよろよろで、2時間も同じ姿勢で座っていられない。それで「コンテイジョン」は私も見たいから他のを見てと言われて、次に興味を惹かれたのが「サラの鍵」だったのでこうなった。


第二次大戦のフランスといえば、レジスタンスに代表される徹底した反ナチという印象が強い。しかし「 サラの鍵」は、そのナチの圧力に屈し、大戦初期にパリ市内でユダヤ人を連行して迫害に加担したという事実を基にした作品だ。フランスではかなり触れられたくない歴史の暗部のようで、1995年に当時のシラク大統領が大戦時の過ちを認め公的に謝罪したことは、大きな事件としてとらえられた。


とはいえ、「サラの鍵」はその事実を基にしているとはいえ、フランスの戦争責任を問うという作品ではない。「愛を読む人 (The Reader)」も、戦争責任者を裁く裁判を題材にしてはいたが、結局描いていたのは一人の人間であるのと同じだ。


「サラの鍵」では、主人公サラは憲兵らがアパートに来て一家が連行される時、とっさにサラはなんとかして弟だけでも助けようと、自分が戻ってくるまでは何があっても決して音を立てたり外に出ようとしないよう、念を押して水だけを持たしてクローゼットに弟を隠し、鍵をかける。


むろんこのことは、連行されたサラたちの一家がアパートに帰ることを許されなかったため、裏目に出る。誰もいないアパートで、果たして弟は無事にいるのだろうか。さらにサラたちは、そのまま収容所に入れられる。サラはなんとしてでも脱走して弟を助け出すと決心する。時間がない。弟は今にも飢えて死ぬかもしれないのだ。サラは収容者で仲よくなった子と一緒に脱走を決行する‥‥


時は変わって2009年。かつてサラたち一家が住んでいたアパートに、ジャーナリストのジュリア、夫のベルトランと娘の一家が移り住んでくる。その家にはベルトランの両親が長年住んでいたがそこを譲り受け、改装して住む計画だった。ジュリアは、過去フランスが隠したかったユダヤ人迫害を記事にしたこともあるジャーナリストだ。当時のことを追っていたジュリアは自分がサラの住んでいたアパートに住むことに奇しき縁を感じ、さらにサラの行動を追う。しかしそのことは、自分の夫の父があまり思い起こしたくなかったことを穿り返すことでもあった‥‥


この物語が成立するには、サラたち一家が住んでいた家が、70年後に現存するという前提が成り立たなければならない。そのアパートのクローゼットにサラが弟を隠し、70年後のその家にジュリアが移り住むというのが話の骨格なので、なにはともあれアパート・ビルは現在も建っている必要がある。


70年だ。日本だと最低でも地方の有力者でないと、70年後も建っている家を所有しているということはまずないと思う。戦中に庶民が住んでいた家は、ほとんど100%に近い確率でもうないだろう。しかしヨーロッパではレンガ造りの家が主流だから、100年後も家はそのままある。


ヨーロッパではなくてアメリカの郊外の一軒家ですら、結構古い家というのはある。NY郊外の知人が住む家は、特に大きくはない2階建てだが、築100年だ。さすがに内装やその他ところどころに手を入れたり化粧直しをしているが、それでもいまだに現役で、むしろ味があって好もしい。


一方、昔の日本の家は簡単に壊れる、もしくは壊すことができるが、それは紙や木の文化、始終やってくる台風や異常気象等のために、建て直しやすい家ということに重点が置かれたことにも関係があるに違いない。あまり薄い板の壁だとプライヴァシーもなんにもなくチープという印象の方が強いが、しかしすぐに壊して均してまた一から新しいのを建て直すことができる。いざとなるとリセットしやすいという考え方は魅力的だ。リセットできない家に住んでいるヨーロッパ人が常に過去からの遺産を抱えていることを考えると、フットワークが軽いことは悪くない。


実際にそう簡単に家を建て直すことができるわけではないだろうが、しかしレンガ壁の家を建て直すよりは楽だろう。東日本震災で津波に襲われた町では、少なくともそうあって欲しいと思う。因みに私の実家は台風銀座にあるので、私の家だけではなくほぼすべての家が鉄筋コンクリート築だ。ということは、やろうと思えばちょっと壁を削り落とせばそこへ秘密の小部屋を作ったり死体を隠すなんてこともできるわけか。今戦争や大規模災害が起こると、サラみたいな状況も起こり得るんだろうなと思ってしまう。








< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system