Rush


ラッシュ/プライドと友情  (2013年10月)

F1はゴルフ、フィギュア・スケートと共に私がわりとよく見ているスポーツの一つなのだが、本腰を入れて見始めたのは、渡米した1991年以降だ。時代はちょうどアイルトン・セナの悲劇的な事故を経てマイケル・シューマッカの全盛時代に突入しようとしており、「ラッシュ」に描かれている1970年代の天才肌のドライヴァー、ジェイムズ・ハントと理知的なマシーン型のニキ・ラウダのライヴァル争いもしくは確執は、実はまったく知らない。大事故で顔かたちが変貌する火傷を負いながらもその後もレースに出場し続けたラウダは、日本にいた時も何度も目にしており、印象的で覚えているが、あっさりと引退したハントの方は、本当にまったく知らなかった。


「ラッシュ」はそのハントとラウダのライヴァル同士の争い、特にラウダの命に関わる大事故と、生還しての奇跡的なレースへの復帰、二人の熾烈な優勝争いが最終レースまでもつれ込んだ1976年のシーズン、そして富士スピードウェイの最終戦をクライマックスとして描く。


筋書きのないドラマのスポーツは、結果を先に知ってしまうと勝負に対する興味が大きく失せる。特にTVで視聴する時に時差があって、夜中や日中は仕事で見れない生中継を録画をして後で見るのを楽しみにしているのに、先に結果を知ってしまった時の悔しさといったらない。


しかし、だからといって、では結果を知っているから見ないかというとそんなことはなく、ちゃんと見たりする。特に大きな勝負だったりするとなおさらだ。さらに贔屓にしている人/チームが関係していたり、その上負けてたりすると、逆に何度も勝負所を繰り返して見たりする。そのうちなにかの拍子に勝ってくれるんじゃないかと半分本気で思ったりする。スポーツ・ファンの心理は不思議だ。


あるいは、「ラッシュ」並みに古い話になれば、当時を知っている者はそれほど多くなく、また、知っている者も新鮮な気持ちで当時を振り返ることもできるに違いない。スポーツは、その醍醐味はやはりスポーツそのものにあり、ダイジェストやドキュメンタリーは率先して見ようとは思わないが、それが知らない話だったりすると、知識を得る上で役に立つことは確かだ。しかしそれでも、ドラマとして話を再構成するドキュドラマになると、実はほとんど気持ちとしては敬遠する。それはたぶんドラマであって、スポーツではない。


逆に言うとスポーツとしてではなく、ドラマとして面白くさえあればいいという論理も成り立つ。実際に「ラッシュ」だって多少は事実を膨らませたり想像で補ったという部分もあるだろう。「インビクタス (Invictus)」だって、スポーツ・ドキュドラマというよりも、スポーツを介したドラマと言う方がしっくり来る。実際、いわゆるスポーツ映画は、現実にはスポーツを描いているのではなく、スポーツを介したドラマであることがほとんどだ。


「ロッキー」は、あれは確かにボクシング映画と言えると思うが、しかし同じボクサーを描いていても、「シンデレラマン (Cinderella Man)」「ザ・ファイター (The Fighter)」や「レイジング・ブル (Raising Bull)」や「ミリオンダラー・ベイビー (Million Dollar Baby)」は、あれはボクシング映画ではない。今書いていて気づいたのだが、ボクシング映画は事実を基にしたドキュドラマが多い。フィクショナルな「ロッキー」がいかにもスポーツを描いているのに、事実が根底にあるとスポーツではなく、ドラマになってしまう。


「ロンゲスト・ヤード (The Longest Yard)」や「カリフォルニア・ドールズ (The California Dolls)」や「スラップ・ショット(Slap Shot)」や「勝利への旅立ち (Hoosiers)」がスポーツ映画なのは、そのスポーツを描くことが作品のクライマックスに来ているからで、スポーツの面白さとストーリーの面白さがシンクロする稀な例だ。面白いものでこれらのスポーツ映画の傑作は、最後、主人公 (が属するチーム) が勝っても負けてもどっちでもいいと思わせてしまう。勝ち負けよりもスポーツのエッセンスであるエキサイトメントをとらえていることに注力しているからで、見た後で実際あれって勝ったっけ、それとも負けたんだっけ、と、結果をちゃんと覚えてなかったりする。「ロッキー」で、最後ロッキーは勝ったと思っていた女性と話したこともある。結果は二の次なのだ。


だいたいスポーツ映画と言われているものは、特にアメリカ映画に多いベイスボールを例にとると、「フィールド・オブ・ドリームス (Field of Dreams)」にしても「人生の特等席 (Trouble with the Curve)」にしても「マネーボール (Moneyball)」にしても「さよならゲーム (Bull Durham)」にしても「ナチュラル (The Natural)」にしても「エイトメン・アウト (Eight Men Out)」にしても「42 (42)」にしても、ほとんどスポーツ映画ではない。これは特に、ピッチャーとバッター以外の他のプレイヤーはただ突っ立っている (あるいはキャッチャーのように座っている) だけで、むしろそれ以外の駆け引きの部分がベイスボールというスポーツの多くの部分を占めることに関係していると思える。要するにスポーツは人生の比喩だ。だから「人生の特等席」のように、どう考えてもそのスポーツをするには歳をとり過ぎている者が主人公になったりする。それにしてもケヴィン・コスナーは、「フィールド・オブ・ドリームス」、「さよならゲーム」、「ティン・カップ(Tin Cup)」等、スポーツ映画と縁がある。


一方、私が今でも読むマンガは、「はじめの一歩」や「イニシャルD」等、基本的にスポ根マンガが主体だ。「イニシャルD」なんて、カー・レース・マンガだ。それをとても面白いと思って読んでいる。「サーキットの狼」も昔毎週ジャンプに連載中に読んだ。つまりスポーツはスポーツとしてだけではなく、ドラマ、フィクショナルな作品としても楽しめる。というか、「巨人の星」、「タイガーマスク」、「あしたのジョー」、「エースをねらえ」、「ドカベン」、「Yawara」、「Slam Dunk」等、昔からスポーツとマンガは不可分の関係だ。マンガはスポ根に限る。


さて、では「ラッシュ」だが、私の印象を言うと、かなり「シンデレラマン」と似たようなものを感じた。要するに手練れのロン・ハワード演出だ。うまい。ツボを押さえている。しかしその一方、これって本当にあったことなのか、なんて思ってしまう。二人のライヴァル争いの決着がシーズンの最終戦となる富士で着くはずが、決勝は土砂降り、レース決行かどうか危ぶまれる。走り出したはいいものの一方のラウダは2周走っただけで棄権、あとはハントの走り次第となり、レース後も実は誰が勝ったかよくわからず揉めるという、なにがなんだかよくわからない展開になる。これが事実と知ってないなら、スポーツ映画でこんな決着がよくわからんまどろっこしい脚本書くやつはクビだと宣告したくなるところだ。


実はカー・レースは、マンガはともかく映画ではそんなに多くはない。レースではなく、カー・アクションをフィーチャーした作品は、アクション映画の基本であり、それこそ掃いて捨てるほどあるが、実際にカー・レースを描く作品となると、この20年くらいで思い浮かぶのは「ドリヴン (Driven)」や「デイズ・オブ・サンダー (Days of Thunder)」くらいだが、あまりできはよくない。カー・アクションはアクション映画に必須だが、そのものを描くカー・レース映画はまた別もののようだ。


それを考えると、「ラッシュ」はかなり成功していると言える。もしかしたらカー・レースは完全なフィクションより事実を描くドキュドラマとの方が相性がいいのかもしれない。一方、衝撃的だったセナのクラッシュは、あれは映像化しようとしても、どんなにその瞬間がよく見えなくても、当時のニューズ・フッテージを超える絵は作れないような気がする。あの瞬間に、時が止まってしまっているのだ。そういうことを考えると、むしろ今回の映像化の成功が際立つような気がする。やはりハワードは手堅い演出家だ。










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カー・レーサーのジェイムズ・ハント (クリス・ヘムズワース) は天才肌のドライヴァーで、普段は享楽的な生活を送り、レースでも一瞬の閃きによって疾走するタイプだった。一方、ライヴァルと目されるニキ・ラウダ (ダニエル・ブルール) はそれと正反対の石橋を叩いて渡る謹厳実直型で、二人は性格もレース運びもまるで正反対でありながら、共に優れたドライヴァーとしてF1サーキットで優勝争いを演じていた。1976年のシーズン、序盤はラウダがリードしていたが、ドイツGPで大事故を起こし、顔に大やけどを負っただけでなく、命に関わる大怪我をして死線を彷徨って入院を余儀なくされる。そのうちにハントがポイント差を詰めてきて、シーズンのチャンプの行方は最終の日本GPまで持ち越される。その日富士スピードウェイは土砂降りで、開催が危ぶまれる中、レースは決行される。しかしラウダは2周しただけでレースを棄権、勝負はハントの走り如何にかかってくる‥‥


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