Road to Perdition

ロード・トゥ・パーディション  (2002年7月)

「アメリカン・ビューティ」のサム・メンデスがいよいよ2作目を撮った。昨年、インディ映画の「メメント」を撮って、今年アル・パチーノを使ってハリウッド大作の「インソムニア」を撮ったクリストファー・ノーランのように、メンデスも今回はトム・ハンクスやポール・ニューマンを起用して、製作費8,000万ドルという大作を任された。製作費は「アメリカン・ビューティ」の3倍以上だそうで、舞台演出の経験が豊富でデビュー作がヒットしたとはいえ、映画はまだ2作目の新人監督にそういう大作を撮らせるハリウッドの心臓は大したものだと思う。その上その2作目でいきなり歴史もの、しかも主演のハンクスにこれまでの彼のイメージとはまったく異なるギャング役をやらせるというメンデスも肝が据わっている。それとも勝算は充分と踏んだのか。


時は禁酒法時代、マイケル・サリヴァン (ハンクス) はギャングの殺し屋として、妻のアニー (ジェニファー・ジェイソン・リー)、息子のマイケルJr. (タイラー・ホークリン)、次男のピーター (ライアム・エイキン) と暮らしていた。アニーはマイケルが殺し屋だということを知っているが、まだ幼いマイケルJr.とピーターはそのことを知らない。マイケルはボスのジョン・ルーニー (ポール・ニューマン) の右腕として信頼も厚かったが、ジョンの実子であるコナー (ダニエル・クレイグ) は、そのことが気に入らない。コナーはついに嫉妬のあまり、マイケルをなき者にしようと策を練る。コナーはアニーとピーターを射殺するが、マイケルとJr.はすんでのところで難を逃れ、逃亡の旅に入りながら復讐の機会を窺う。一方ジョンは我が子可愛さのあまり、コナーの方が悪いことを知りながらも、マイケルに名うての刺客マグワイア (ジュード・ロウ) を差し向けるのだった‥‥


「ロード・トゥ・パーディション」は、昨年の「ゴースト・ワールド」「フロム・ヘル」のように、グラフィック・ノヴェルと呼ばれている媒体が原作である。ストーリーをマックス・アラン・コリンズ、絵をリチャード・ピヤース・ライナーが担当している。グラフィック・ノヴェルとは要するにマンガのことで、アメリカでは従来その手の媒体は、D.C.コミックスやマーヴェル・コミックスのスーパーヒーローものが主体で、せいぜい数十ページのオール・カラーというのが相場であった。そのため、最近流行りのこの手の、白黒、数百ページにわたるマンガは、「コミックス」ではなく、「グラフィック・ノヴェル」としてジャンル分けされるようになっている。


私が勤めているオフィスの近くの大型書店チェーンのバーンズ&ノーブルでは、場所は限られているがちゃんとグラフィック・ノヴェル・コーナーが設けられており、このジャンルが市民権を得てきたことを物語っている。話は変わるが、先日、興味があったので「ロード・トゥ・パーディション」を立ち読みに行ったのだが、わりと翻訳された日本のマンガが多かったので驚いた。TokyoPopという新興の出版社? が力を入れているようで、「ああ、女神様」や「カウボーイ・ビバップ」といった最近の作品や「アストロボーイ (鉄腕アトム)」みたいなクラシックがしっかり棚に並んでいる。もちろん、この種の作品の草分けである大友克洋の「アキラ」もある。一番驚いたのが、井上雄彦の「バガボンド」もあったことで、アニメとは無縁の作品も英語化されているということは、ジャパニーズ・マンガもついにアメリカで市民権を得るようになってきたかと嬉しくなってしまった。


これらの英訳されたマンガは、昔は全部左綴じの英語本に合わせ、左右を逆に刷り直すのが普通だった。しかし現在ではただセリフや擬音を英訳しただけで、日本と同じ右綴じのスタイルでそのまま店頭に並んでいる。多分、これまで右綴じの本なんて生まれてこの方読んだことがない者が圧倒的に多いだろうアメリカにおいて、このスタイルが定着するかはまだ未知数であるが、是非とも定着して欲しいと思う。そうすれば、日本の未曾有の在庫を誇るマンガの傑作が、アメリカでも手軽に読めるようになるに違いない。そうしたら、「ポケモン」と「ドラゴンボール」しか知らないくせにくだらないと言って日本のアニメやマンガを排斥しようとする、アメリカの無知な中年以上の年代の蒙を啓かせてやることができるというものだ。


さて前置きが長くなったが、「ロード・トゥ・パーディション」である。結局この話は、ギャングものの体裁をとった父と息子の物語である。最初息子は父が殺し屋とは知らないが、ある日父がどこへ行くのかつい確かめてみたいと思って、夜、父の運転する車に忍び込み、父が人殺しをするのを目撃する。そしてその後すぐ、母と弟が殺されたため、父と二人で逃亡生活に入る。映画はそれらの話を息子の目から見た父の姿を中心に描く。


この作品が成功しているかどうかは、ひとえにこの、ハンクスが殺し屋に見えるかどうかということにかかっていると言えるだろう。はっきり言って私は、この配役が100%成功しているとは言えないと思った。ハンクスの別の面を見せるというアイディアは悪くないんだが、私には、やはり彼はギャングには見えなかった。ボス役のポール・ニューマンや、その息子に扮するダニエル・クレイグあたりがきっちりとギャング面しているために、逆にそのことが強調されてしまったような気がする。ついでに言うと、夫が殺し屋ということを子供に隠しながらも、躾けに厳しい母アニーを演じたジェニファー・ジェイソン・リーなんて、出番は少ないながらも完璧という感じがしたし、ハンクスを追う刺客に扮するジュード・ロウもいいのに、この作品で最も配役に違和感を感じさせるのが、主演のハンクスなのだ。別に積極的に悪いとは言わないが、それこそ「アメリカン・ビューティ」のケヴィン・スペイシーをもう一度使ったらダメだったんだろうか。


また、ハンクスの息子マイケルJr.に扮するタイラー・ホークリンも、こちらも悪くはないが、とてもいいとも思わなかった。アメリカの子供の俳優はひたすら層が厚く、なんで子供なのにこんなに演技がうまいんだと思う子役が跡を絶たないが、今回のこれくらいのレヴェルの子役なら、他にもっとうまいのが大勢いるはずと思ってしまった。それとて下手なわけではないが、他の役者陣の圧倒的な存在感と、イメージどんぴしゃりのキャスティングを前にすると、主演の二人が一番違和感を受ける。


実はこれらの違和感を受けるのも、演出や撮影、セット・デザイン等を含め、その他がほぼ完璧にまとまっているからだ。特にメンデスと「アメリカン・ビューティ」に次いで撮影を担当しているコンラッド・ホールのコラボレーションは見事なもので、クライマックスで、雨の中、暗がりに潜むハンクスがマシンガンをぶっ放すあたりの撮影および演出は、美しいと口にするのが恥ずかしく感じられるほどの様式美を見せる。うーん、あのシーンは「俺たちに明日はない」のクライマックスや、「ミラーズ・クロッシング」でマシンガンを撃ちまくるアルバート・フィニーと同じくらいのインパクトがあった。きっと歴史に残るでしょう。


作品自体はアメリカ映画に連綿としてみられる父子ものとギャング映画、さらにはロード・ムーヴィを足して割った物語ということで、はっきり言ってストーリー自体はどこかで見たような展開を見せる。その、後半の、わりと予定調和の物語を乱す暗殺者として登場してくるジュード・ロウは、表向きは死体撮影が趣味のジャーナリストということになっており、それまでの展開とは一味違った印象を残す彼の登場は、話にスパイスを利かせて結構いい。「A.I.」でもそうだったが、ロウって、主演よりもこういう重要な脇として登場する時の方が印象が強い。彼は本当は主演よりも脇向きの俳優なのではないか。


ハンクスが息子と旅に出る後半は、特にギャング映画というよりも父子ものという比重が強くなる。そのあたりの話は、まるで昔見た映画から寄せ集めてきたような展開のオン・パレードだ。チャップリンから「ペーパー・ムーン」、「俺たちに明日はない」、「センチメンタル・アドベンチャー」を全部繋ぎ合わせたような印象で、特に父が息子に車の運転を教えるというのは、父と子を描く上でアメリカ映画には欠かせないプロットであるのだなあという認識を新たにした。


原作では物語の語り手である息子は成長して牧師となっており、その牧師が過去を振り返るという体裁になっている。ぱらぱらとページをめくると、映画よりもこちらの方がヴァイオレントなシーンが多い。カラーで見たら単にエログロマンガになりそうな印象を受ける。それを様式美溢れる作品に仕上げたメンデスとホールは、やはりただものではない。 メンデスは、「アメリカン・ビューティ」がフロックではなかったことを見事に証明した。しかし、この作品、奇を衒ったところがなく、正攻法で、父子の愛を情感たっぷりに描き、しかもハンクスが出演しているとなると、これはアカデミー賞一直線という気がしないでもない。うーん、私はこの作品でのハンクスはちょっと疑問なんだが、アカデミー会員は好きそうだなあ。多分この映画は、今年公開された映画で来年の作品賞にノミネートされる最初の1本になるのではないだろうか。







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