Quills

クイルズ  (2000年12月)

18世紀、あまりにも赤裸々な性の描写で著作が発禁処分を受け、精神病院に軟禁され、書くことを禁じられながらもありとあらゆる手段を用いて書くことを求めたマルキ・ド・サドと、彼をとり巻く人々の物語。ダグ・ライトが95年に書いて喝采を博した戯曲を本人が脚色、フィリップ・カウフマンが演出した。サドを演じるのはジョフリー・ラッシュ、病院内でサドが物語を書き続けるのを裏で助ける洗濯女のマデリーンにケイト・ウィンスレット、病院長兼聖職者のアビーにホアキン・フェニックス、ナポレオンによって病院に派遣されてくる医者のロイヤー-コラードにマイケル・ケインという布陣。


映画が始まって暫くして、これは困ったと思い始める。歴史物では往々として起こることだが、古い言い回しを多用する英語がいかんせん耳に入ってこない(舞台はフランスなんだけどね)。これは厳しい、と、とにかく少なくとも目に見えるものは見失うまいぞと、スクリーンに集中する。おかげでストーリーを追う分には不自由しなかったが、聞き漏らしたセリフも結構ある。それでもイギリス映画の歴史物に較べればまだましだったのだが、NY滞在10年にもなってまだこんなもんかと、こういう時はちょっと自分自身にがっかりする。こればっかりは地道にやるしかない。


映画の前半部はスロウで、冒頭のギロチンのシーンを除けば少しかったるいなと感じたが、中盤、筆記用具を取り上げられても次々と新しい書く方法を編み出すサドの執念が前面に出てくるようになってから、俄然面白くなる。ラッシュっていい俳優だとは思うが、なんかナメクジみたいな印象があるなと思っていたら、そういった持ち味を思う存分振り回しての怪演である。顔もでかく、白人女優にしては決して小さくない顔のウィンスレットと較べても、その倍くらいでかい。あの顔に近寄られたら誰だって怖いだろうと思う。


ウィンスレットはレオナルド・ディカプリオに較べたらうまく自分の出演作を選んでいると思う。しかしまあ、「タイタニック」の後ディカプリオほど注目されたわけじゃないから、それに較べれば作品選びもやりやすかったということはあるだろう。実は私はここでのウィンスレットにはあまり感心しなかった。演技がどうこうというのではなくて、暗い、陰々滅々とした精神病院の中で、彼女だけがやたらと血色がよすぎて浮いているように見えるのだ。ここは「レ・ミゼラブル」で実に見事な汚れ役を見せたウマ・サーマンのように役を造型してもらいたかった。ま、これは単に見る人の好みだと思うから、別に彼女が悪いわけじゃないことは言っておこう。しかし、それでも、私は彼女を見る度にいつもほんの僅かずつ演技過剰だなと思う。彼女は映画女優としてよりも、舞台女優としての方が映えるのではないだろうか。私がウィンスレットでこれまでで一番よかったと思うのは、アン・リーが演出した「いつか晴れた日に」である。


ケインは、昔、大作から小品から傑作から愚作まで、とにかくオファーを受ければ時間の許す限り何にでも出てるんじゃないかと思うくらい色んなところで見た。でも、そういう節操のないところも慣れると気にならなくところが人徳だろうか。最近では充分貫録もついて、ここでも見事な悪役振りを見せる。フェニックスは、うまいのか下手なのか全然よくわからない。「グラディエイター」の時は過剰気味の演技が作品の中味と役柄、リドリー・スコットの演出とマッチしていい味出してたが、ここでは舌足らずな喋り方するし(まあ彼は元々そうだが)、いい表情してるかと思うと次のシーンではしまりがなく、なんか大味である。


カウフマンの演出は、だれ気味の前半部を別にすれば手慣れたもの。しかし、私にとってカウフマンの最高作はやはり「ライトスタッフ」であり、それは「クイルス」を見た後も変わらない。カウフマンの作品には権力に屈しない反骨的な人物が多く登場し、自身も権力による検閲に声高く反抗してきた。90年の「ヘンリー&ジューン」が露骨な性描写が多いと成人指定の「X」レイティングをつけられそうになったのに徹底的に反抗し、そのため新しく17歳以下入場禁止の「NC-17」という新しいレイティングが作られたのは有名な話だ(結局「NC-17」が現在なんかの役に立っているかというと、別に全然そういうことはないということは置いといて)。「クイルズ」も徹底的に権力に反抗するサドの話であり、反骨の男カウフマンは健在というところを証明した。






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