Public Enemies


パブリック・エネミーズ  (2009年7月)

大恐慌時代。ジョン・デリンジャー (ジョニー・デップ) はレッド・ハミルトン (ジェイソン・クラーク) と共に刑務所を襲い、犠牲を出したものの仲間を脱獄させることに成功する。デリンジャーは仲間と共に銀行を連続して襲撃、その悪名は全米に轟いた。ちょうどその頃、地方警察の枠を超え、全米を統一しての捜査機構FBI構築を目論んでいたフーヴァー (ビリー・クラダップ) をこれを絶好の機会と考え、メルヴィン・パーヴィス (クリスチャン・ベイル) を引き抜き、デリンジャー逮捕の任に充てる。何度も間一髪のところで逃がしながら、それでもパーヴィスは着々とデリンジャーの包囲網を狭めていた‥‥


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ジョン・デリンジャーといえば、私の場合一にも二にも1973年のジョン・ミリアスの「デリンジャー」だ。映画の魅力にとり憑かれ始めた少年が、その後の嗜好や規範を決定する重要な作品の一つとして、「デリンジャー」は私個人の映画史に非常な重要な位置を占めている。


たぶん生まれるのがもう少し早ければ、この手の作品で影響を受けたのは1967年の「俺たちに明日はない (Bonnie and Cryde)」か、69年の「明日に向って撃て! (Butch Cassidy and the Sundance Kid)」になっていたと思うが、70年代から映画を見始めた私の場合は、両者を足して割ったような「デリンジャー」に強く影響を受けた。決して二枚目とは言えないウォーレン・オーツのデリンジャーにもしびれたし、乾いたアクション描写にも興奮させられた。しかし実は、少年の頃の私は、ビリー役を演じたミシェル・フィリップスに最も心ときめかせたのだった。


フィリップスといえば、もちろん役者が本業ではない、あのママス・アンド・パパスのメンバーの一人であることなんか、当時はちっとも知らなかった。私が洋楽の方に目覚めるのはまだ先の話で、この頃ですら既にママス・アンド・パパスは懐メロくさくなっていたはずだ。そんなことなんか露ほども知らず、私は銀幕の上のフィリップスに大人の魅力を感じたのだった。


その後、成人してからまた「デリンジャー」を見直す機会があったが、ロウ・ティーンの時になぜあれほどフィリッップスに心ときめかせたのか、自分でもよくわからなかった。第一、改めてよく見ると、フィリップスは特に美人とも言えない。一方で個性的な顔立ちとは言え、その辺りの何かが当時の私の心の琴線のどこかを強く弾いたものと思えるが、それがなんだったのかは私自身にすら今では判然としない。ただ、当時のなんとも心のざわつく気持ちを懐かしく思い出すだけだ。


いずれにしても、そういう理由でこの辺の時代や人間を描いた作品は気にかかる。それがマイケル・マンの新作ともなるとなおさらだ。ジョニー・デップのデリンジャーや、今回マリオン・コティヤールが演じるビリーも気になるし。デップは私がほとんど「パイレーツ・オブ・カリビアン (Pirates of Caribbean)」に惹かれていないために最近ではティム・バートン作品でしか目にしないが、それでも最近はひねった悪役的主演作品が多いとは言えると思う。昔はデップは特にアクが強くないため監督の色に染まりやすいから重宝されるんだろうと思っていたが、最近ではちゃんとデップらしい印象を残す。いかにもヴェテランという感じになってきた。


それにしてもまたクリスチャン・ベイルだ。最近「ターミネイター4 (Terminator Salvation)」も含めて色々な映画にほぼ主演か主演に近いビリングで出ているくせに、結果として他の登場人物を立てる役回りにしかならないという、裏方、裏主演という癖が抜け切らないベイルだ。「戦場からの脱出 (Rescue Dawn)」以来、出る作品出る作品すべてそうだ。特にタイトル・ロールを演じながら結果として悪役のヒース・レッジャーの引き立て役でしかなかった「ダークナイト (The Dark Knight)」以来、そういう星回りになったようだ。


そしてそれはここでも変わらないが、デリンジャーを題材とする作品では、元々パーヴィスは正義の側にいるとはいえども主人公はデリンジャーであり、観客はデリンジャーに肩入れして作品を鑑賞するため、それはしょうがない。とはいえここでのパーヴィスは前半ではデリンジャーにいいようにあしらわれる完全な狂言回しだし、ラストはデリンジャーをだまし討ちにするような印象を受ける、ほとんど悪役だ。


演出のマンは、何をおいてもそのアクション描写が最大の見所だ。普通、アクション映画といえども、まずキャラクターがあってこそのアクションになるものだが、マンの作品の場合、アクションを描くことがイコールキャラクターを描き込むことにもなるという、唯一無二の職人的演出を見せる。ギャングだから銀行を襲うのではなく、銀行を襲ったからギャングという見せ方がマンなのだ。まず行動、アクションが先にくる。理由付けはその後だ。


つまりデリンジャーのものの考え方もそういうことなのだろうと思う。金が欲しいから銀行を襲ったというよりも、衝動に任せて銀行を襲ったら金が入った。面白いからまたやってみましたみたいな節が感じられる。既に金は腐るほど手の中にあるのだ。とっととメキシコにでも逃げればいいものを、わざわざいつまでも国内にいることもあるまい。おかげで結局ビリーも捕まるし自分だっていつまでも逃げきれるわけでもない。


要するに、デリンジャーが悪人であっても人気のある理由は、こういう金だけではない悪や滅びの美学を体現しているからだろう。近年では悪役ではあってもヒーローというと、「ダークナイト」でヒース・レッジャーが演じたジョーカーだろうし、あるいは「3時10分、決断のとき (3:10 to Yuma)」のラッセル・クロウもいる。そしてその両方にベイルが主演として出ている。正義として登場し、必ずいいところを悪役に持っていかれるベイル。別に本人が特に謙虚な性格という風にも見えないんだが。


デリンジャーは悪人であってもそれを見る観客の目には特に悪人として映っていない。一方、マンの前作「マイアミ・バイス (Miami Vice)」において、主人公は刑事だがほとんど自分のルールで動いており、法の側に立っているという感じはあまりしない。その前の「コラテラル (Collateral)」は、殺し屋と対峙する男の物語だが、人が覚えているのは犯罪者である殺し屋の方だろう。さらに「アリ (Ali)」、「ジ・インサイダー (The Insider)」、「ヒート (Heat)」と遡っても、善悪をはかることにほとんど意味のないことがわかる。マンは勧善懲悪に興味はないのだ。マンの描こうとしているのはアクション=キャラクター=ストーリーであって、よいアクションが描ければ、それはよいキャラクター、よいストーリー、よい映画なのだ。


映画の最後では、その時刑務所に入れられていたビリーにデリンジャーの最後の言葉を伝えに、エージェントのウィンステッドが面会を求めてくる。ほとんどセリフのないウィンステッドを演じるここでのスティーヴン・ラングは、時にデップもベイルもコティヤールも食ってしまうほど非常に印象的な役なのだがそれはさておき、刑務所の面会室の中にいるヒロインという図式は、即座に最近最も印象に残っている作品の一つであるクリント・イーストウッドの「チェンジリング (Changeling)」の最後のシーンを想起させる。


むろん「チェンジリング」ではアンジェリーナ・ジョリー演じるヒロインは刑務所の中にいる犯人に会いにくるのであって、彼女が罪人として刑務所の中にいるのではないが、結局涙を流すのはどちらも女性の側のジョリーとコティヤールなのだ。一級のアクションを描いても決してアクションの演出家とカテゴライズされるわけではない現在の世界最高峰の演出家の作品と、アクションの職人が描く作品の印象がダブる。どちらも極めているのだ。そしてコティヤールは、それまで徹底してデリンジャーを待つ受け身の役であり、最後のシーンでも身体を動かすという意味でアクションがあるわけではないが、流れる涙で彼女の内側の感情の昂りを現している。コティヤールの演技力よりも流れ落ちる涙そのものが雄弁と感じさせるマンは、やはり徹頭徹尾アクションの演出家だ。








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