Pride and Glory


プライド・アンド・グローリー  (2008年11月)

ドラッグの取り引きの現場に踏み込んだNYPDの警官たちが反撃に遭い、多くが死傷する。警官一家に生まれ、ある事情から現在は一線にいるわけではないレイ (エドワード・ノートン) に白羽の矢が立てられ、事件を究明するよう、やはり警察で要職に就いている父親のフランシスSr. (ジョン・ヴォイト) から要請される。調べて行くうちにレイは、兄のフランシスJr. (ノア・エメリック)、義弟のジミー (コリン・ファレル) らが事件となんらかの関係がある可能性にぶち当たる。果たして彼らは地位を悪用して裏で悪事の手引きをしていたのか‥‥


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ニューヨークを舞台にしたいわゆる社会派映画と呼ばれるジャンルの中で、特に刑事腐敗もの、ギャングもの中心のアンダー・グラウンド系統の作品は、例えば、「ブラック・ダリア」とか「L.A. コンフィデンシャル」とかの西海岸のそれとは明らかにテイストが違う。太陽が燦々と降り注ぐ西海岸でギャングものを撮ると、意識しようがしまいが、テイストはロス・マク風のハード・ボイルドに近くなる。それが風土というものだろう。


一方、LAより冬が長いNYで同様の作品を撮ると、日照時間も短いため、暗く、重くなりやすい。それがある種の鬱勃とした雰囲気を持つドラマになりやすいのも当然だ。そして私はもちろんそういう作品を愛するものである。さもなければこんなに寒いのが苦手なくせにわざわざNYになんて住んでない (実際にはNYではなくてお隣りのニュー・ジャージーであるが。)


特にNYのこういう内向型のギャング、刑事ドラマに特化して作品を撮り続けている映画作家というと、近年では昨年の「アンダーカヴァー (We Own the Night)」や「裏切り者 (The Yards)」、「リトル・オデッサ」を撮ったジェイムズ・グレイを思い出す。NYを舞台とする社会派というと、その筆頭に挙げられるのは誰よりもまずシドニー・ルメットだろうが、今やグレイは大御所のシドニー・ルメットと並ぶNY派という印象がある。


ルメットが権力と個人とを対等に描く、あるいは対比させてきたという印象があるのに較べ、グレイの場合、視点はあくまでも力に振り回される個人の方に向かいがちで、要するに悲劇的なタッチになりやすい。強大な権力や政治、力関係に巻き込まれながら必死にそこから抜け出そうともがく人間を執拗に撮り続けているのだ。そしてその延長線上の新たなNY派の出現を予感させるのが、この「プライド・アンド・グローリー」を撮ったギャヴィン・オコーナーだ。


陰々滅々自爆型のNYを描こうと考えた場合、シーズンが冬であればいいのは言うまでもない。暗く立ちこめた雲や葉を落とした木々、雨や雪、襟を立てたコートや足早に道を歩く人々というのは、必要欠くべからざる重要な心象風景によって物語に味を添える。このことはもちろん「プライド・アンド・グローリー」においても例外ではない。


作品は冒頭、寒風の中のNYPDのアメフトのゲームで幕を開ける。彼らがゲーム中のその時、勤務中の警官の何人かはドラッグ・ディーラーのアジトを急襲、しかし反撃に遭った警官の何人かは命を落とす。代々NYPDに勤めてきたティアニー家の家長フランシスSr.は、現在一線から退いている次男のレイを呼び出し、調査を命じる。レイは調査を進めるうち、兄のフランシスJr.や義弟のジミーらが事件になんらかの関係を持っている感触を抱く‥‥


とにかく圧倒的に作り手の思い入れたっぷりに作られており、こういう話はそうじゃなくっちゃなと思う。恥知らずなくらいロマンチシズムを前面に押し出して酔わせてもらいたい。主演がエドワード・ノートンというのからしてたぶんそうなんだろうなとは思っていたが、やはりそうだった。


登場人物も、ノートン演じる主人公のレイをはじめとして皆一筋縄では収まらないバック・グラウンドを持っている。ちょっと脇を描き込み過ぎて消化不良に陥った感は否めず、そこら辺が批評家から不興を買った感はなきにしもあらずだが、しかし今回はそういうものを求めて劇場に足を運んでいるので、たっぷりと世界に浸ることに徹する。


ではあるが、やはりこれだけキャラクターを描き込むには3時間は欲しかったところを無理矢理まとめているので、明らかに苦しい点もある。その筆頭が主人公レイの境遇で、彼はNYPD一家に生まれ、彼も警官だったことはわかるが、現在の境遇が判然としない。なんらかの事件かなんかに巻き込まれ、今は閑職というか悠々自適というか、ちょっと一線から距離を置いたところで生活しているのはわかる。遊軍のように自律的に動きながら内部情報にも詳しいという存在が必要だったのには同意する。


しかし、そのような人物がいきなりまた現場に復帰して自由に調査して回ることができるかというと、たとえ父親が要職についているとはいえ、なんらかの風当たりはあってしかるべきだと思うが、見ている限り、レイはいつでもどこでも好きな時に好きなように動いている。しかし畢竟公務員である警官に遊軍という存在があったら、税金を払っている一般市民はそれを認めないと思う。我々は誰かを遊ばせるために税金を払っているわけではない。


さらに、レイの (たぶん元) 妻の存在はよけいわからない。現在別居中というのはわかるし、レイはよりを元に戻したくても相手はそうではないというのもわかる。しかしその妻は都合2回 (3回だったっけ) しかスクリーンに登場しない。レイのその他の家族は皆それぞれもっと登場する機会があるが、それでももっと描き込めるという印象を残す場合、レイの妻はあまりにもスクリーン・タイムが短過ぎで、彼女が今何をしている存在なのかはまったくわからない。


長男フランシスJr.の妻アビーはガンを患っており、キモセラピーで治療中なのだろう、頭にも毛がない。たぶん余命幾ばくもないというドラマティックな境遇なのだが、これもまた、では中心となる話に貢献しているかとなると、フランシスJr.の性格を物語る上でなにがしかの印象をもたらしはする。しかし、劇的な境遇のわりにはもっと描き込んで人物造型を深めるのかと思ったほどには彼女は本筋の話には絡んでこず、結構肩透かしだ。


多かれ少なかれ家長フランシスSr.の家庭、レイの義弟ジミーの家庭もそのような描き方で、話の本筋に絡むわけではなく、それぞれに家庭思いの主要登場人物の家族くらいの重さで登場してくるだけでしかない。一方でその分の描き込まれ方はしているので、それだけで終わると、では彼彼女らはその後どうなったわけ、と気になってしまうのだ。等々という些細な欠点が目についたり思わずそういった点をあげつらったりしてしまうのも、実はこの作品がそれなりに印象的な作品として仕上がっているからに他ならない。傑作と断言するわけではないが、しかしこのパッションは本物だ。


ノートン以外では二枚看板でビリングされているのが、義弟ジミーに扮するコリン・ファレル。今春、ウッディ・アレンの「カサンドラズ・ドリーム」で心臓の弱いケチな犯罪者を演じているのを見せられ、さらに夏はコメディ・タッチの犯罪ケイパーもの「イン・ブルージュ (In Bruges)」に主演など、意外な芸幅の広さに感心したものだが、こういう押せ押せのファレルこそを真骨頂と見る者は多いと思う。また、歴史的にアイリッシュが多い東海岸の警官や消防士に、いかにもアイリッシュ然としたファレルは非常にはまる。


一方、ファレル演じるジミーはレイの妹ミーガンと結婚することでティアニー家の一員となった者だ。その点、家長のフランシスSr.を筆頭に長男のフランシスJr.およびレイと続く血の結びつきにはかなわない。その筋金入り警官叩き上げを体現するフランシスSr.を演じるジョン・ヴォイトが、半分アル中でありながら生っ粋の警官という感じをよく出しており、最近のヴォイト出演作品の中では「トランスフォーマーズ」「 ナショナル・トレジャー  リンカーン暗殺者の日記」なんかよりこちらの方を断然推す。こないだ見たTVの番宣によると、来春の新シーズンからFOXの「24」に出ることが決まっているようだ。


そのフランシスの長男フランシスJr.に扮するのは「リトル・チルドレン」のノア・エメリックで、彼もまたよし。「リトル・チルドレン」とはまた違った印象を見せる。その妻アニーに扮するのがジェニファー・イーリーで、「抱擁 (Possession)」でクリスタベルを演じていた彼女だ。とはいえ脇の方で最も印象に残るのは、良心に悩まされる苦悩する警官サンディを演じたジョン・オーティスだろう。彼の熱演のおかげでスクリーンが非常に悲劇性を帯びて引き締まった。


一つ本筋から離れたところで印象に残ったのが、レイがハーバーに泊めてあるヨットの中で寝起きしていたということ。そういう生活の仕方があるのかということよりも、「ブラッド・ワーク」でクリント・イーストウッド演じる主人公がそういうまんまの生活をしており、ある種の諦観を持つ人間はそういう浮き世のしがらみから離れられるヨットの上で生活するというライフスタイルが確立されていることにへえと思った。イーストウッドだけじゃなかったのだ。むろんオコーナーが「ブラッド・ワーク」を見てその設定を頂いたという可能性もある。


都会にいながらとはいっても、ヨット生活は感覚としてはほとんど自給自足に近い。ヨット内で使用する水は全部自分で調達しないといけない。ガスだってひいているわけではなく当然プロパンだろう。寒い冬は特に暖房を回すためにエンジンを動かしていなければならないだろうが、その給油もある。「プライド・アンド・グローリー」では海水が浸水までしてくるが、こういったことは地上生活に慣れていると到底我慢できまい。冬、ヨットの中で暮らしていて海水が浸水してきたりしたら、私なら翌日から陸上生活に戻るのは間違いない。しかし水上生活を自分から率先して行う者は、そういうことや簡単な機械の修理くらいなら自分でする。だいたいアメリカ人は特に都市部以外では多少車をいじるくらいは自分一人でやる者が多いのだが、これがフロンティア・スピリッツの残滓かと思ったりもする。しかしノートンとイーストウッドにこんなところに共通点があったとは。果たしてノートンはイーストウッドの後継者になれるか。







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