「ピッチ」は、女性初のメイジャー・リーグ・ベイスボールのピッチャーを描くドラマだ。
という話を聞いた途端、私の年代ならまず間違いなく誰もが連想するように、私も当然の如く水島新司が描くマンガ「野球狂の詩」の水原勇気を連想した。
プロ野球で女性がピッチャーになるという斬新な発想の「野球狂の詩」が少年マガジンに連載されたのは昭和51年、つまり西暦1976年、ベイスボール発祥の地アメリカより40年も早く、日本のマンガ界ではプロ・スポーツ界でジェンダーの壁が破られていた。今思うと、水島新司は大きく時代を先取りしていた。
そして2016年、ついにMLBにも女性ピッチャーが誕生する。女性は女性でもさらに黒人女性だ。ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を破って黒人初のメイジャー・リーガーになったのは1947年。それから70年経って、初の女性の、しかも黒人のメイジャー・リーガーが誕生する。
アメリカでも、というかアメリカだからこそ、女性が男性と対等に勝負するのは難しい。男性と女性は明らかに体格体力に差があるからだ。ジェンダーの壁を破るのは、人種の壁を破ることより難しい。
しかしもし女性メイジャー・リーガーが誕生するとするなら、ピッチャーになりそうというのは確かにある。テクニックで最も体格差をカヴァーできるポジションだからだ。だから水原勇気もプロになれた。
しかし「ピッチ」の主人公ジニーは、左投げのアンダー・スロウという、極端に稀な投法で有利に立てる水原とは異なり、右投げのオーヴァー・スロウという、最も一般的な投げ方だ。さらに、ワンポイントのリリーフ・ピッチャーという位置づけだった水原と異なり、ジニーは先発ピッチャーだ。 これじゃやはり男性ピッチャーには太刀打ちできないんじゃないか、それとも女性でも彼女は時速150kmの速球を投げられるという設定か。
とまあ、その辺のことは製作者もちゃんと考えていて、ジニーの父はジニーに、男性バッターを手玉にとるための秘球スクリュウ・ボールを教え込んでいた。スクリュウ・ボールは、ボールを鷲掴みにするように握って投げる。どうやらナックルみたいな変化をするもののようだ。水原も、ストレートが手元で変化する、みたいなドリームボールという決め球を持っていた。
私は幼い時に「巨人の星」の洗礼を受けた世代で、当然仲間と草野球をした時に、星飛雄馬のように大リーグ・ボール1号、とか、消える魔球、とか叫んでボールを投げていた。
結局あれは物理的にあり得ない魔球というものに逃げた逃避に過ぎないと言えるが、当時は飛雄馬が血の滲むような努力をして身につけたことや貧乏な暮らしの描写等で、いかにもあり得そうなものに見えた。あれが「アストロ球団」のように行き過ぎてギャグになってたなら構わないが、「巨人の星」の場合、なまじ飛雄馬が血みどろの努力をするために、リアルになっていかにもありそうな話になっていたというのがミソだった。
今考えると、「巨人の星」は周到に本当の問題や批判を回避しながらあり得ない逃げ道によって問題を解決したような錯覚を与えていたという点で、むしろ子供たちに有害とすら言えるんじゃないかと思う。あれに騙された子どもたちは多い。あり得ない魔球でいたずらに少年たちを惑わした原作の梶原一騎の罪は重い。あるいは、もし「巨人の星」を読んだおかげでイチローのような存在が生まれたのだとしたら、やはり「巨人の星」には存在価値があったのだと言えるだろうか。
ジニーはプレッシャーから初登板の日に自滅するが、そのために逆に吹っ切れて、父の教えを思い出し、二回目の登板で初白星を挙げる。それも幼い頃から徹底してベイスボールをジニーに教え込んだ父の指導の賜物だ。 父はスパルタで指導する飛雄馬の父星一徹みたいなキャラクターで、やっぱり家族、特に両親の指導やサポートで幼い時からトレイニングしてないと、一流のアスリートというものは生まれない。 どんな時でも常に父はジニーと一緒にいた。もちろんジニーの初登板の日も。初勝利の日も。その父が、実は既に交通事故で数年前に死んでいたことが番組第一回の最後でわかる。しかしジニーの心の中では父は常にジニーと共にいた。
番組は実は100%スポーツものというよりも、ジニーの女房役であるマイクともしかしたら色恋沙汰になるかもというちょっとソープっぽい匂いを醸し出している。私としてはあまりその路線には進まず、スポ根ものに徹してもらいたいというのが希望だ。それにしてもそのマイクに扮しているのがABCの「NYPDブルー (NYPD Blue)」の マーク-ポール・ゴセラーだったということに、番組を見た後に改めて出演者をチェックしていて初めて気づいた。髭ぼうぼうでまったく気づかなかった。