O

O (オー)  (2001年9月)

ティム・ブレイク・ネルソンが、シェイクスピアの「オセロ」を現代のハイ・スクールのバスケットボール・チームを舞台に、大胆に翻案して映像化したドラマ。タイトルの「O (オー)」とは、オセロ (Othello) のOであると共に、今回のオセロ役であるオーディン (Odin) のOでもある。


上流階級の白人が圧倒的に多いハイ・スクールのバスケットボール・チームで、ただ一人黒人のオーディン (メキ・ファイファー) は、スター・プレイヤーとしてチームを地区優勝に絡むまで引っ張り、学校の学部長の娘デシ (ジュリア・スタイルズ) のハートも射止め、皆から羨望の眼差しで見られていた。しかしチームのコーチ (マーティン・シーン) の息子でありながら、いつもオーディンの引き立て役としてしか見られず、父親の寵愛すらオーディンにとられてしまったヒューゴ (ジョッシュ・ハートネット) は、オーディンを罠にかけようと企んでいた‥‥


「オセロ」は、畢竟、主人公オセロのというよりも、悪役イアーゴの物語という感が強い。もちろんオセロがイアーゴの奸計にはまって悲劇への道をひたすら突き進むのが物語の醍醐味と言えるが、イアーゴという悪役があってこその「オセロ」である。別に「オセロ」に限らず、主人公を引き立たせるには主人公に優るとも劣らぬ悪役が必須だが、今回、その主人公と悪役、それにヒロイン役が実にいい演技をしている。


特に今回のイアーゴ役のヒューゴに扮するジョシュ・ハートネットが、親の愛情を渇望するスポイルされた高校生という役どころを好演している。ハートネットはこないだ「パール・ハーバー」で見た時よりも今回の方がずっと若い。それもそのはずで、「O」は実は2年前に既に撮影を終了していたが、丁度その頃、作品の中に登場する学校内での発砲事件が現実にも起きて社会問題となり、世論の反応を考慮した配給のミラマックスの判断により、公開が延期されていたものである。


おかげでアクション大作のハートネットを先に見てしまったために、まあ、女性ファンがつくだろうな、くらいにしか思っていなかったハートネットが、意外になかなかいい俳優だったという発見があった。彼は甘えん坊風の雰囲気があり、ガタイはでかくてもいつも親指をしゃぶっていそうな印象が抜けない。だから本当はもうちょっと身長が低い方が持ち味が発揮できるという気がするんだが、それはそれでやはり女性受けはいいだろうと思う。その彼が今回は悪役に徹するところが配役の妙である。


ハートネット同様、「セイブ・ザ・ラストダンス」という今年の若者向けのヒット映画の代表みたいな作品に出演していたジュリア・スタイルズも、実は演技派だったんですね。「ザ・シックスティーズ (The 60s)」なんて箸にも棒にも引っかからないミニシリーズに出ていたのしか記憶にないのでまるで期待していなかったが、こちらもなかなかの拾い物。そう言えばやはり「じゃじゃ馬ならし」の翻案である「恋のからさわぎ」、それに「ハムレット」と、実はシェイクスピア作品の映像化に続けて出ているのだ。こちらは見てなかったのでまるで忘れていた。「トラフィック」のエリカ・クリステンセンに感じがよく似ている。


オセロ役のメキ・ファイファーもカリスマを発揮しまくっている。黒人俳優も最近はデンゼル・ワシントン以外に白人と混じっても主役をはれる俳優が目白押しで、将来が楽しみである。それにしても「ラストサマー2」で知られるようになった感のあるファイファーといい、「ハロウィーンH20」、「パラサイト」に出ていたハートネットといい、若い男優がホラーでとにかくキャリアを積むというのは最近の定石のようだ。


監督のティム・ブレイク・ネルソンは、コーエン兄弟の「オー・ブラザー」では馬面をした完璧な間抜けを演じており、コメディ畑のやつだとばかり思っていたら、こんなにシリアスで才気の溢れた作品を撮る。しかも本人の写真を見ると、これがテニスのティム・ヘンマン似のなかなかのハンサムなのだ。「オー・ブラザー」のあの間抜け面は作り物でしかなかったのか。


それにしてもシェイクスピアというのは何度でも映像化される。最近だけでも先ほどの「恋のからさわぎ」、「ハムレット」以外に、「真夏の夜の夢」、ケネス・ブラナーの「恋の骨折り損」、バズ・ラーマンの「ロミオ+ジュリエット」、ジュリー・テイモアの「タイタス」等、すぐに何本も思い浮かぶ。基本的にリメイクなんて信用しない私であるが、このくらい古典になると話は別だ。話の展開を知っていて見に行っても楽しく見れるというのは、原作の骨格がよほどしっかりしていることの証拠なんだろう。シェイクスピアって、本当に偉かったんだなあ。


ただし、映像化されたそれらの評価に関しては、必ずしも誉められているとは限らない。特に「O」は最近のシェイクスピアの映像化で、これほど意見の分かれた作品はないというほど意見が分かれている。私の印象からいうと、作品のできそのものというよりも、構造以外は完全に換骨奪胎したそのやり方が、特に本当にシェイクスピアを勉強した批評家から攻撃されたという印象を受けた。つまり、オリジナルでは見られないヴァイオレンス描写とか、まったく原作の韻文の詩的な響きを殺してしまった、4文字言葉の羅列だとかが結構批判されていた。それではシェイクスピアではないというわけだ。


そりゃまあ、確かにそれはそうでしょうが、見る方としては、やはりいつもローレンス・オリヴィエが主演するシェイクスピア作品ばかり見たいわけではない。私としてはなんとなく古典として取っつきにくいオリジナルのシェイクスピアよりも、最近の現代化したシェイクスピアの方が垣根が低くて気楽に見れてありがたい。こんなこと言うとやはりシェイクスピアの研究家から文句言われるのだろうか。それに悲劇に向かって突っ走るクライマックスのこのテンションの高さには、思わず引き込まれる。基本的にストーリーはわかっていて見ているのに、私は手に汗握ってしまった。これはやはり演出の巧さを物語っているのではないか。


こういう映画こそそういう事件があった時に公開した方がもっと話題になったはずなのに、世論の反感を怖れて公開を渋り、結局配給権をライオンズ・ゲイトに売り渡してしまったミラマックスは、度し難いほど小心者だとしか言い様がない。こういうのを配給してこそのインディ・スタジオではないか。それが数年前にディズニーに身売りしてからというもの、ミラマックスが配給する映画はどうもインディ映画というよりは、メイジャー・スタジオになりたがっているミニ・スタジオが批評家の目を気にして汲々としながら公開する作品という印象が抜けないものでしかなくなってしまった。反省を促したい。







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