Nobody Knows   誰も知らない  (2005年3月)

明 (柳楽優弥)、京子、茂、ゆきの4兄弟姉妹はそれぞれ父親が違うが、母 (You) の元で仲良く暮らしていた。子供が4人もいると嫌がられることが多いので、長男の明だけが子供のふりをして、他の3人は大型の旅行かばんの中に隠れて新しいアパートに引っ越してくる。明以外は外へ出ることもかなわい生活だったが、子供たちはそれなりに幸せに暮らしていた。しかし自己中心型の母は新しい男を見つけ、アパートに帰ってこなくなる。仕送りも途絶えがちになり、子供たちは自分たちだけでなんとか生活していかないとならなくなる‥‥


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是枝裕和はアメリカでも映画好きならかなりの者が知っている映画作家である。「幻の光 (Maborosi)」も「ワンダフルライフ (After Life)」も、アメリカ紹介時にはそれなりの反響があったという記憶がある。静謐な印象を与える絵作りが、いかにもとはいえ、禅だの東洋の美学だのなんだのと並行して論じられていた。とはいえ、映画祭サーキットの枠を超えて、一般劇場公開されるほどの知名度があるわけではない。


そういった、マイナーな映画作家であるはずの是枝の新作「誰も知らない」がにわかに脚光を浴びたのは、とりもなおさず、昨年、クエンティン・タランティーノが審査員長を務めたカンヌで、並みいる対抗馬を抑えて柳楽優弥が主演男優賞を受賞したからにほかならない。日本映画びいきのタランティーノは、とにかく何がなんでも一つは主要な賞を日本映画に与えると最初から決めていたに違いない。


そのせいで「誰も知らない」がある程度の注目を浴びたのはいいが、しかし、そのことだけで作品がアメリカ一般公開まで結びつくかは微妙である。なんせ是枝作品は地味という印象は免れがたいし、どう見ても興行という点では大した成績は期待できないことは最初からわかりきっていたからだ。しかし、これだけ作品タイトルを知らしめておいて、これでアメリカ公開はなしというのはないんでないの、タランティーノ、そこまでしたからには「誰も知らない」がアメリカ公開するまで責任持てよな、と思っていた。それがインディ映画専門のアメリカの映画チャンネル、IFCの配給で無事アメリカでも公開されることになった。まずはご同慶の至りである。


「誰も知らない」は1988年に起こった現実の事件を脚色した物語であるそうだが、映画では時代を特定しているわけではなく、今の物語として見ても差し支えあるまい。というか、現代の方がより無理なく収まる設定であるように思える。こういう無責任な母は、今の時代の方が多いのではなかろうか。


これだけ無責任、社会の一員たる自覚ゼロの母があまり悪者に見えないのは、それでも子供たちが母のことを好いているからにほかならない。外部から見ると自分勝手で責任能力のない悪者でしかない母であっても、内部から見るとそうでない大きな存在であるという逆転は、なんかカルト宗教の内部の構造に等しいようにも思える。子供たちが実はそれぞれに父親が違うほとんど赤の他人に等しい人間の寄せ集めであるのにうまくやっているという構造も、そういう宗教集団を連想させる。


とはいえ是枝にはそういう母を弾劾しようとしたり、社会的な問題意識を提出するという気持ちは毛頭なく、作品はひたすらそういう、外部から見た場合逆境ではあるが、そういった世界しか知らない人間にとっては、ある程度社会から隔絶され、守られた子宮の中にでもいるような安全な幸せな別世界という場所で暮らす子供たちをとらえることに終始する。実際、子供たちは幸せそうなのだ。


その中で、自我が芽生え始めた長男の明と長女の京子が、段々そういう生活に不満を感じ始めるのは当然だ。学校にも行ってなく、友だちもいないティーンエイジャーという存在が歪んだものだというのは、誰よりも本人たちが真っ先に感じるはずのものだからだ。その上、新しい男を見つけた母はほとんど子供たちを捨てたも同然で、アパートに帰ってこなくなる。結局、そういう地に足のついていない生活は、一見それ自体完結している幸せな別世界に見えようとも、いつかは破綻せざるを得ない。


観客の立場としては、こういう子供たちだけの生活がどういうふうに露見し、どういうふうに破綻していくかが作品のクライマックスだろうと当然思う。それなのに、「誰も知らない」は、そういう崖っぷちに立たされながらも、それでも自分たちだけで生活していく子供たちの姿で幕切れになる。ハリウッド映画に慣れた身としては、これには驚かざるを得なかった。要するに、起承転結で転まで来て、さてこれからどうなるんだろうと思ったらそこで映画は終わってしまうのだ。


これから当然来るはずの破綻、あるいはもしかしたら子供たちがなんとか自給自足の道を見つけてこれまで同様暮らしていくことができるかもしれないという、現実に起こったこととは別の可能性すら示唆せず、唐突に、作品は幕切れを迎える。このアンチ・クライマックス性こそが是枝の特長であり、こちらでやたらと禅やら無常観やらと同列で論じられている所以でもある。要するに是枝はそうやって暮らしている子供たちの生活の一瞬を切り取ってくることだけに力を注いでおり、なぜそういう事態になったか、今後どうなるのかという背景や将来の予測、社会的勧善懲悪の論理にはてんで気を回していない。その意味で、是枝本人にとって最も近しい存在は、実は母親のけい子である。本人がけい子に対して敵意を持っていないから、あるいはけい子にどこかしら共感すら抱いているから、子供たちもけい子を好きなままでいられるのだ。


私は是枝作品は「幻の光」だけ見ているのだが、「誰も知らない」でも、共にひ弱そうに見える主人公が実は大地に足をつけて立っている人間であり、いつ倒れるかと思わせといてそのくせ強靱であるという共通点は見逃せない。たぶん他の作品でも主人公はこうなんだろうと確信するのに充分だ。さらに両作品のイメージとしては、共に逆光で窓際にいる登場人物というイメージが繰り返し現れ、非常に強く印象に残る。


実は私が一般公開されているわけではない「幻の光」を見たのはいつぞやの確かニューヨーク映画祭で、たまたまルームメイトがこの作品のチケットが余分に手に入ったからといって私に譲ってくれたからだ。こういう映画祭だから是枝本人も来ていて、上映の後の質疑応答で、そういう、印象的な暗めの室内と明るい屋外とを同時にとらえる撮影法に関する質問に対して、是枝は予算がなかったから部屋の中用のライトを調達できなかったからと答えて、場内から受けていたのを覚えている。いつの間にやらそれがいかにも是枝的な絵の手法として確立してしまっているようだ。


「誰も知らない」に関して一つだけ間違いなく言えることは、この映画はタランティーノによって柳楽がカンヌの主演男優賞をもらってなかったら、アメリカで一般公開する可能性はまったくなかったろうということだ。そういうわけで柳楽優弥という俳優にも興味を持って見に出かけたんだが、なんだ、柳楽、演技なんてまるでしてないじゃないか。とはいえその存在感だけで、演技している俳優に与えるはずの主演男優賞をとることを周りに認めさせてしまったというのは、確かに大した偉業ではある。しかし、ここはそれでも、柳楽に平気で賞を与えてしまったタランティーノを、あんたはよくやったとたまには誉めてやってもいいだろう。






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