放送局: PBS

プレミア放送日: 9/26 (Mon), 9/27/2005 (Tue) 21:00-23:00

製作: スピットファイア・ピクチュアズ、グレイ・ウォーター・パーク・プロダクションズ、サーティーン/WNET、シケリア・プロダクションズ、ヴァルカン・プロダクションズ、BBC、NHK

監督: マーティン・スコセッシ


内容: ボブ・ディランの初期のキャリアを回顧する。


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実はあまり、というか、ほとんどボブ・ディランのことを知らない。ディランだとかジョニー・キャッシュだとか、その辺のフォーク=カントリー系のミュージシャンは、どんなに大物であろうとも、純粋にロック系のスーパースターほど、あるいは耳に馴染みやすい日本のフォーク=ポップスほど、70年代当時少年だった私の心を惹きつけることはなかった。リズムとメロディだけでは楽しめない、英語の歌詞にも耳を傾ける必要があり、さらには見た目が派手じゃないフォーク=カントリーは、要するに、一見して格好いいものではなかったのだ。


さらに「ノー・ディレクション・ホーム」を見て知ったのだが、ディランは60年代後半から70年代にかけて、ツアーを行わず、一時沈黙する。アルバムは出していたのだろうが、ディランが音楽的に一時的な停滞期に入っていたちょうどその頃、音楽というものに興味を持ち始めていた私は、要するに、おかげでまったくと言っていいほどディランを聴くことなく十代を過ごした。今さらなんてもったいないことをと思っても後の祭りである。結局、私が自分の金でディランのアルバムを買ったのは、97年の「タイム・アウト・オブ・マインド」が初めてなのであった。致命的に遅れてしまっている。


「ノー・ディレクション・ホーム」は、ディランがそのキャリアの中休み的な停滞期に入る前、60年代前半から中盤にかけて、言い換えればディランの最盛期のキャリアを回顧するドキュメンタリーである。現在では知識としてはディランの名前を知ってはいても、それでも、特に思い入れのあるわけではないシンガーの、それも4時間にもわたるドキュメンタリーなぞ、普通はまず見ない。それをアメリカTV界が一年で最も忙しい時期である、9月下旬の新シーズンの新番組ラッシュの真っ只中に放送されたこの番組を、プライムタイムに裏番組を無視してまで2夜連続で見ちまったのは、ひとえに監督のマーティン・スコセッシの名前を見てしまったからに他ならない。


スコセッシの音楽通ぶりは誰でも知っている通りであり、古くは「ザ・ラスト・ワルツ」から、最近では一昨年のTVミニシリーズ「ザ・ブルーズ」まで、音楽の好みのセンスのよさは定評がある。実際の話、私はザ・バンドだって「ラスト・ワルツ」で教えてもらったようなものだ (これを見てなぜその時舞台に登場したディランに入れ込まなかったかは、私自身にも不明。) そのスコセッシが新しく監督する音楽ドキュメンタリーがこの「ノー・ディレクション・ホーム」だとしたら、これは見ないで済ますわけにはいかない。


上述のように、「ノー・ディレクション・ホーム」はディランのキャリアの最も油の乗っている時期をとらえているわけだが、かといって、これまでにディランのキャリアを回顧したドキュメンタリーがなかったわけではない。ベスト盤のアルバムもあるし回顧本もある。それを、何を今さら、わざわざディランのキャリアの一時期に絞ったドキュメンタリーを作る必要があったのかとは、わりと多くの人が思うのではないか。


その答えは、その、ディランの最盛期の、最も刺激的なパフォーマンスをとらえた映像が、このたび初めて陽の目を見ることになったからという事実によって裏書きされる。これはディランのファンのみならず、音楽史的に見ても貴重な映像だ。そこでこれを発表するに当たり、監修する者として白羽の矢が立ったのが、誰あろうスコセッシなのであった。誰にも文句のない選択であろう。スコセッシはその時、「アビエイター」撮影のために忙殺されていたのだが、彼にとってもこのオファーは到底断れるものではなかった。どんなに忙しくても、嬉々として編集に携わったに違いない。


番組では当然ディラン本人が出てきてインタヴュウに答えているのだが、ほとんどカメラの切り換えなし、正面からの顔のアップのみで最初から最後まで終始しており、これだけでも嬉しい。最近、とみに忍耐のなくなってきた視聴者におもねるために、こういうインタヴュウやトーキング・ヘッズものでも、喋っている途中でやたらとカメラが切り換わる傾向がある。ものによっては、いきなり横からのカメラがインタヴュウイーの横顔を映し出したりする時があって、いくらなんでも奇を衒い過ぎて興醒めだと思っていたのだが、さすがにスコセッシはそんなことはしない。ライティングも一灯のみ、バックは真っ黒、しかし、被写体の魅力と構成の力があれば、これに勝る撮り方はないということをちゃんと証明している。


「ノー・ディレクション・ホーム」において、ディランは60年代のディランも現在のディランも、歯に衣着せず、正直に自分の思うところを述べている。今の方が多少は柔らかくなった印象があるのは当然としても、やはり面白いのは、まだ青臭いが、しかし俺には歌しかないんだという気概が溢れている、60年代のディランだろう。当時ディランと対になって考えられていたジョーン・バエズもインタヴュウイーとして番組中に何度も登場するが、現在ではかなり穏やかになり、髪も白くなって (染めてもいるのだろう)、一見するとバエズとは気づかないのに較べ、ディランの方は、40年前も今も誰が見ても一目でディランとすぐわかる。かなり顔自体の作りは変わっているのにもかかわらずだ。


彼は結局、歌うことだけにしか興味がなく、歌を歌ってさえいることができるならば他に何もいらなかった。その途中でたまたま有名になってレコードが売れて印税が入ってきたのは、本当にたまたまでしかなく、歌うことの副産物でしかなかった。そういうディランの姿勢がよくわかる。逆に言えば、そういう人間の歌う歌だからこそ、人の心をつかんだんだろう。


そして「ノー・ディレクション・ホーム」の白眉は、パート2にある。1963、64、65年にディランがニューポート・フォーク・フェスティヴァルで行ったパフォーマンスが収められているからだが、アコースティックからエレクトリック・ギターに持ち替え、ほとんどハウリングが起きて会場の誰もディランが何を歌っているか聴き取れず、半分はブーイングしていたというパフォーマンスを含め、レコーディング・セッションなど、ちょっと鳥肌もんのパフォーマンスがいくつも収められている。ちょっと、この男、確かにただもんではなかったんだなということがよくわかる。いくら同時代ではなかったとはいえ、こういう圧倒的なミュージシャンを私はほとんど知らなかったのか。


ところで監督のスコセッシであるが、番組放送直後に本人が直々に出てきて特別インタヴュウに答えており、実はスコセッシ本人も、「ライク・ア・ローリング・ストーン」がヒットするまではほとんどディランのことは知らなかったと答えていた。この曲が収められているクラシック、「ハイウェイ61・リヴィジテッド (Highway 61 Revisited)」が発売されたのが1965年、ディランのキャリアのピーク時であり、デビューが50年代末だったことを思えば、スコセッシがディランを知らずにいた時期はかなり長かったと言える。同じ場所に住んでいても、スコセッシほどの人間でもディランを知らずにいたのだ。私がディランをほとんど聴かなかったのもむべなるかなだと、少しほっとしたのであった。


ところでこの番組、冒頭の製作のクレジットを見ていると、その最後にNHKがクレジットされている。NHKはアメリカでも、主要なドキュメンタリー製作によく協力している。特に近年は、HDTV普及に力を入れるためにまずはアメリカを手なずけなければならず、一時期、目立ったドキュメンタリーでHDTVで製作されているものは、そのほとんどにNHKが関係していたという印象がある。現在ではHDTV普及も一息つき、以前ほどNHKの名を見かけなくなったが、こういうアート系番組だと、依然金を出しているようだ。とはいえ、最近の不祥事を見ていると、外国の番組製作に手を貸すより、まずは自分のお膝元を気にした方がいいんじゃないかと思ってしまうのだが。





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ノー・ディレクション・ホーム: ボブ・ディラン   ★★★1/2

 
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