Nine Queens (Nueve Reinas)

ナイン・クイーンズ  (2002年5月)

「ナイン・クイーンズ」は2000年公開のアルゼンチン映画である。昨年のアルゼンチンの代表的な映画賞の主要部門をほとんど総なめにした、当地では最大級のヒット映画であるらしい。予告編で見ると、いわゆる騙しあいのコン・ゲームを主題とするギャングものっぽい。この手のジャンルもの、特に犯罪ものって、昨年の「メメント」もそうだったが、必ず定期的にどこからともなく現れ、それなりに話題となる。「ナイン・クイーンズ」はアメリカから見ればスペイン語を喋る外国映画ということもあり、字幕のつく映画が受けないアメリカでは「メメント」ほどヒットするというわけには行かないだろうが、それでも一部では熱狂的とも言える支持を得ている。こういう、カルトになりそうな犯罪映画が面白くないわけがない。


小物の詐欺師ファン (ガストン・パウルス) は、ガソリン・スタンドのコンビニでけちなひっかけ詐欺を連続で試みようとしてばれてしまい、危うく警察に突き出されそうになる。たまたま現場に居合わせた同様の詐欺師マルコス (リカルド・ダレン) は、仏心を出して刑事を装い、ファンを助け出す。実はマルコスの方も相棒に逃げられ、新しい相棒を必要としていたのだ。そのマルコスに連絡が入り、古い知人の贋作師サンドラーが、ナイン・クイーンズと呼ばれるコレクター・アイテムの高額な切手を贋作したことを告げる。明日国外追放になる金持ちのコレクターがおり、売りつけるチャンスだという。ファンとマルコスはその話に乗るが‥‥


要するに、騙し騙されのコン・ゲーム映画である。結局のところ、本当は見た目そのままではなく、裏で誰が誰を騙そうとしているのか、騙すのが誰で騙されるのは誰か、一筋縄では行かないのはわかっているのだが、やはり裏をかかれてしまう。この種の作品ではやはり「スティング」が古典であると思うが、「ナイン・クイーンズ」となると、「スティング」の最後のどんでん返しをいくつも用意して、これでもかというような捻りを連続技で出してくるため、本当に先が読めない。伏線やらどんでん返しやらをあまりに大量に用意しているため、その伏線が決まったかどうかすら、ちゃんと考えないとよくわからなかったりする。色々なアイディアを惜し気もなく詰め込んでいるため、なんか、もったいない気持ちがするくらいだ。この中の幾つかのアイディアを使えば、また別の作品が1、2本は撮れそうなのだ。


おかげで逆に「スティング」のシンプルさを懐かしく感じてしまった。あれはあまり頭を悩ませることなく、単純に楽しめたなあ。それに較べると現代の映画というものは大分遠いところまで来てしまったという感触を受ける。もう、これくらいやらないと客を喜ばせられないのかもしれない。でも、こんな脚本を考えるのってたいへんだろうなあ。監督のファビアン・ビエリンスキーは、これが初演出作であるだけでなく脚本も書いているのだが、感心してしまう。アイディアもすごいし、また、初監督作でこれだけのものを演出してしまうというのもすごい。最近の新人監督って、本当に第一作からヴェテランとまるで変わらない演出力を見せる。世界の流行りなのだろうか。


現在のアルゼンチンの政情を鑑みるまでもなく、当地の政治や人心の腐敗ぶりはかなりのものらしい。ビエリンスキーが脚本を書くに当たって、そういう細々とした詐欺の手口を調べ始めたら、友人知人に当たっただけでこういう被害に遭った、ああいう被害に遭ったという話がわらわらと即座に集まったそうだ。映画の前半部分でファンとマルコスが展開する様々の詐欺の手口はすべてそういう事実を元にしているそうで、本人が考えたのはナイン・クイーンズを使用したメインのトリックだけだとニューヨーク・タイムズのインタヴュウで答えていた。


しかしこの映画、出てくるやつのほとんどが小悪党で、いわゆる善人はほとんど出てこない。強いて言えば善人はマルコスの弟のフェデリコくらいで、その他の出演者のほとんど全員、多かれ少なかれ腹黒いところを持っている。マルコスがファンに詐欺師の心得を伝授するシーンで、ブエノス・アイレスの街角の至るところでカモを待っているその手のやくざ野郎やその手口を数え上げるという印象的なシークエンスがあるのだが、私は、うーん、ブエノス・アイレスってこんなにやばいのか、アルゼンチンに旅行に行くのは止めようと本気で思ってしまった。自慢じゃないが私はだいたいいつも考え事をしながら道を歩くので (無論ただ何も考えていないという時も多いが)、きっとそういう奴等から見ると絶好のカモに見えると思う。ニューヨークに来たばかりの時、わりとやばめのところに住んでいたこともあって、いきなり二度ばかりかつあげ食らって有り金とられたこともある。私は南米向きじゃないなあ。


「ナイン・クイーンズ」が少なくともアメリカで成功しているのは、見る方がこの中に登場している役者のただ一人として知らないという一点に尽きる。もちろん地元アルゼンチンでは皆知られている役者なんだろうし、主演のダレンは、今年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた「サン・オブ・ザ・ブライド (Son of the Bride)」でも主演している。しかし、それでも自国外では無名だろう。こういったタイプの作品では、演じる役者を知っていると、どんなによく脚本が書けていてもキャスティングによってだいたい先が読めてしまうという、見る方にとっても不本意な興醒めな状態が出現してしまうことが往々にしてあるが、出演者の一人も知らないと、そういうことは起こり得ない。それで安心して騙されることができる。


素人に毛が生えたくらいの青二才にしか見えないファンであるが、実は本当は隠された才能を持っているのかもしれない。冴えない落ちぶれた詐欺師のマルコスだって、実は能ある鷹が爪を隠しているのかもしれない。敵対しているように見えるマルコスの妹のヴァレリアだって、本当は裏でマルコスとつるんでファンを騙そうとしているのかも。今では落ちぶれたサンドラーや、騙される役のガンドルフォだって、実は裏で誰と誰が手を組んでいるかわかったもんじゃない。こういう風に邪推して楽しめるのも、単純に彼らを知らないからだ。少なくともこの映画に関する限り、アルゼンチン以外の国の観客の方がうまく騙される快感を得ることができるだろう。


この映画、既にニューヨーク地域で公開されて何週間目かになるのだが、通常のハリウッドものに飽き足りなくなった映画ファンを中心に、しぶとく客が入っている。私が見に行った時は、滅多にないことであるが、私と同年代くらい (つまり40歳くらいの中年に足を突っ込んだくらい) からかれこれ7、80になろうかと思われる客が全部で20人くらい、ほとんど皆一人でこの映画を見に来ていた。要するに、この映画はこういう大人受けする、通好みの題材であったわけだ。だいたい男8割、女2割くらいだったが、客のほぼ全員が一人で劇場に足を運び、好きな場所に間隔を空けて点在している様に、そうそう、映画はガキだけのもんじゃない、同志よ、と私は心ひそかに何やら心強いものを感じたのであった。







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