Ninagawa Macbeth

蜷川マクベス

2018年7月21日  ニューヨーク、リンカーン・センター、エドワード・コッチ・シアター

なぜだか理由はよくわからないのだが、蜷川幸雄の「マクベス」がニューヨーク、リンカーン・センターの、モストリー・モーツァルト・フェスティヴァルで公演される。蜷川の名を一躍世界に知らしめた「マクベス」は、話には聞いていたので見たいとは思ったが、しかし、蜷川って演劇の人だろ、それがなぜNYの毎夏の音楽フェスティヴァルのモストリー・モーツァルトのバナーの下で公演される? 蜷川マクベスってオペラかミュージカルだったのか。 

 

という疑問はともかく、普段は演劇やシェイクスピアには私より興味なさそうな女房がなぜだか今回は乗り気で、とっととチケットを手に入れる。シェイクスピアか。エミリー・ワトソンをブルックリンまで見に行った「十二夜」以来だ。 

 

当日会場に着いてみると、わりと日本人も多いが、ニューヨークのこととて世界中から色々な人種が集まっている。チケットは売り切れだそうだ。蜷川って知られているんだな。しかし、これ、舞台は戦国時代の日本で、基本セリフは日本語だろ。いくら頭上に英語字幕が出ようとも、話わかるんだろうか。あるいは、クラシックのシェイクスピアのマクベスなんだから、展開は既に頭に入っているか。 

 

見た後の感想を言うと、所々場面転換時に音楽、フォーレのレクイエムとかが使われるとはいっても、やはりあれはオペラ、ミュージカルではなく、舞台だろう。まあ、「モストリー」・モーツァルトであるからして、必ずしも100%音楽、モーツァルトということではなく、広い意味で音楽も用いられているような作品だと、興味あるものは世界中から招いているようだ。 

 

いずれにしても蜷川マクベス、面白かった。私は記憶はもう朧だが黒澤明の「蜘蛛巣城」は見ているので、所々記憶の中のそれと比較して見てたりした。そして実を言うと、本当に強く記憶に残っているのは、マクベスを翻案した手塚治虫の「バンパイヤ」だったりする。 

 

「バンパイヤ」の主人公間久部緑郎は3人の魔女から、お前は人間にも、人間でないものにもやられないという託宣を受け、自分の勝利を信じて悪行に走るが、最後に裁きを受ける。その時、彼は人間から変身途中のバンパイヤにやられると喝破される。確かにそれは人間でも人間でないものでもない。相当ガキの頃に読んだこのセリフをまだ覚えているくらいだから、強烈なインパクトがあったに違いない。 

 

シェイクスピアのオリジナルでは、マクベスは one of woman born (女が産んだ者) にはやられないというもので、蜷川マクベスでは、女の腹から生まれたものはマクベスは倒せない、となっている。これは女の腹から生まれたのではなく、帝王切開で腹を切って取り出されたマクダフならマクベスを倒せるのだった。 

 

実はこれってかなりバカミス・ネタなのではと今では思う。帝王切開でも女の腹から生まれたことにはならないのか。しかし見ている途中は、おおそうだったのかと素直に驚くのだった。動かないはずの森が動くというのも、兵士が持つ木の枝が重なり合ってまるで森が動いているように見えるというもので、やはりこれもある意味変格ミステリ・ネタだ。実はシェイクスピアはミステリ作家でもあった。 

 

蜷川マクベスで言うと、森が動くシーンではもっと多くの人間に枝を持たせて森という感じを出してもらいたかったと思うし、桜の花びらももっと潔くふんだんに大量にばらまいてもらいたかった。黒澤の「蜘蛛巣城」で実際に森が動いているように見えるシーンには興奮させられたし、歌舞伎でこれでもかとばかりに桜吹雪が舞台を覆い尽くす演出には陶然とさせられたりしたが、蜷川マクベスにはそれはない。しかしあれはあれで寂寥感は出ていたし、そういう美学だったのだろう。いずれにしても非常に楽しめる舞台であったことには変わりない。 





 

 

 





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