Moulin Rouge

ムーラン・ルージュ  (2001年6月)

「ムーラン・ルージュ」は冒頭、スクリーンに映った赤い緞帳が開くと、20世紀FOXのあの、タンタカターンで始まるファンファーレがスクリーン下部の指揮者の指揮に合わせて登場するという、映画のテーマに合わせた洒落っ気たっぷりのオープニングで始まる。期待してはいたが、本当に面白そうだとますます胸が高鳴る。そして実際に期待に違わぬ面白さだった。1900年のパリを舞台に、怒濤の2時間、ジェット・ローラー・コースター並みのエンタテインメント・ミュージカルが「ムーラン・ルージュ」である。


この映画、本当は20世紀FOXの去年のクリスマス・シーズンの目玉作品であるはずだったのだが、主演のニコール・キッドマンの怪我や、監督バズ・ラーマンの完璧を期したポスト・プロダクションのために製作日程が大幅に遅れ、結局今まで公開が延び延びになっていたもの。92年の私の個人的ベスト3のうちの一つ、「ダンシング・ヒーロー」(豪版「Shall We ダンス?」である)、そして96年の「ロミオ+ジュリエット」と、気になる作品を続け様に撮ったラーマンは、私が今最も注目している監督の一人。昨年暮れに「ムーラン・ルージュ」公開延期の発表があった時は、本当にがっかりしたもんだ。


今、ハリウッドで流行りのヴィジュアル派の一人であるラーマンは、今回は前2作にも増した凝ったイメージで全編を覆い尽くす。しかし、今ではほとんどすたれたジャンルのミュージカルである上に、中途半端にコメディ・タッチで、あまりにもヴィジュアルを重視し過ぎで中味がないと、苦言を呈する批評家も多かった。使用される曲もミュージカル・クラシックからビートルズ、エルトン・ジョン、マドンナ、キス、ニルヴァーナ、U2、スティングと、時代考証も何のその、奔流のごとく溢れ出るイメージと大胆なアレンジの音楽は、なるほど、これは見る人を選ぶと思わせる。


イメージと音楽が先に来すぎて、ドラマがおろそかになっているという意見もわからないではない。ところどころコメディ仕立てを強調した構成は、悲恋に終わる愛のドラマとして見るにはちょっとつらい。第一、主演のサティンに扮するキッドマンは、死の病にかかっているというのに健康そうで死にそうにはまったく見えない。この作品をけなす理由の筆頭が、2時間のミュージック・ヴィデオを見せられているようなものだという意見にも一理ある。


でもキッドマンと、彼女に恋するクリスチャンに扮するマグレガーは、歌はうまいとは言えないけれども充分感じを出しており、私は別に文句はない。歌唱力よりも雰囲気だ。作品内に使用される曲は、ナット・キング・コールの「ネイチャー・ボーイ」、ビートルズ「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」、エルトン・ジョン「ユア・ソング」、デイヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」、ハリウッド・ミュージカルから「サウンド・オブ・ミュージック」、「ダイアモンズ・アー・ガールズ・ベスト・フレンド」等々。その中での白眉は、私見では文句なしにタンゴ・ヴァージョンのスティングの「ロクサーヌ」。とにかくこれは無茶苦茶かっこよかった。これだけ見にもう一度劇場に行ってもいいくらいだ。


ラーマンの演出は、確かに「ダンシング・ヒーロー」、「ロミオ+ジュリエット」、そして「ムーラン・ルージュ」と、段々ドラマよりもイメージ重視になってきている感はある。しかしこれだけ豪華絢爛なイメージを見せられると、ドラマが弱いことなんかほとんど気にならない。というか、「ムーラン・ルージュ」はイメージがドラマを語っているとも言える。筋なんか知らなくても、あのイメージと音楽を見るだけで充分感動的だ。映画とは関係なく作られた歌の歌詞が、ぴたりとストーリーにも合ってもいる。コメディの要素が強い作りであるわけだが、ラーマン自身は、構えている観客をリラックスさせるためにも、作品がばかげていることが必要なんだとインタヴュウで答えていた。そのことの是非と効果はともかく、まあ、確かに見る方の肩の力を抜くことには役立っているよな。


だいたい、「ロミオ+ジュリエット」でも、レオナルド・ディカプリオとクレア・デインズというまったく現代的な俳優を起用しておきながら、セリフはシェイクスピア時代の古い持って回った言い回しをそのまま使用していたために、私はほとんど何言っているかわからなかった。あれは英語を母国語としている人間で学校で英語の古典を習っているのでもない限り、何言ってるかわかるわけない。つまり、ということは、たとえアメリカ人でもロウ・ティーンとか、真面目に学校で授業を受けていない人間は、ほとんどセリフを聞き取れたはずはない。それでも「ロミオ+ジュリエット」がヒットしたのは、結局、何言っているのかわからなくても、大筋のストーリーは誰でも既に知っているし、必ずしもセリフを100%聞き取ることが映画に必須の条件とは限らないということだ。「ロミオ+ジュリエット」でも「ムーラン・ルージュ」でも、観客が知っている必要のあることはそれが悲劇であるということで、瑣末なディテールなどどうでもいいのだ。


その他に作品を特徴づけているのが、ほとんど片時も止まることのないカメラの動き。登場人物のダンスが主体のミュージカル仕立ての上に、コミック・リリーフ的役柄の脇のジョン・レグイザモやジム・ブロードベントがのべつ幕無しに動き回るので、とにかく移動撮影主体のカメラがほとんど止まる暇がない。レグイザモというと、彼は確かに身長は高い方ではないが、その上、小人という設定のためにさらに背が低くなっている。ここは彼の顔が欲しかったために本当に小人の役者を使うわけには行かなかったのだろうが、しかし、全身を撮ってどうしてちゃんと彼だけ小人に見えるのか不思議だ。ここもCGか。彼の芸で低く見せているというふうには見えない。彼は「アラビアン・ナイト」のランプの精役といい、人間的じゃない役がどんどんに持ちネタなっていくという、種を超えた俳優になりつつある。ブロードベントはマイク・リーの「トプシー・ターヴィ」を彷彿とさせる役柄で、確かにこの手の役ははまる。今回はちょいコミック的要素が強いが、19世紀後半から20世紀前半の劇場が舞台となる作品で、彼なしの配役なぞまず考えられない。


それにしてもラーマンは、こんな作品を作っちまったら、次どんなのを撮ることができるのか気になってしょうがない。彼の作品ではいつも音楽が重要な要素を占めるから、次も音楽なしだとはまず考えられないが、もしかしたら次は意外にも正攻法のドラマを撮るかも知れない。「ダンシング・ヒーロー」は、ドラマとして見ても実にエモーショナルな作品であった。そもそも彼は、80年代に演劇界の重鎮ピーター・ブルックの下で演出を学んだ身である。ラーマン自身は、自分のやっていることは「観客参加型の映画」だと言っている。ふむ、なんとなく彼のしたいことがわからないではないような気がする。


さて、いずれにしても「ムーラン・ルージュ」の音楽は私のツボにすごくはまったので、劇場からの帰りがけに、一瞬サウンド・トラックのCDを買ってこようかと思ったが、思い直した。というのも、私は以前「ロミオ+ジュリエット」を見に行った時にもまったく同じように感銘を受けてサントラ版を買ったのだが、全然よくなかったことを思い出したのである。あれはラーマンの映像と一緒になるからすごくよかったのであって、音楽だけ聴くとただのポップ・アルバムで、全然つまんなかった。しかし今回はアレンジもひどく凝っていたから、それだけ聴いても面白いかも知れない。うーん、どうしよう、買うべきか買わざるべきか。迷うなあ。 







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