Mother (Madeo)


母なる証明  (2010年4月)

韓国の寒村に住む母にとって、気がかりでもあり心のよりどころでもあるのは、一人息子のトジュンだった。トジュンは少し頭の足りないところあるが、純粋で、そのため人にいいようにあしらわれやすい。ある時、地元の女子高生が惨殺されるという事件が起きる。彼女はトジュンが絵を描いたゴルフ・ボールを持っており、トジュンは逮捕される。トジュンの無実を信じる母だったが、周囲は耳を貸さない。母は一人でトジュンの濡れ衣を晴らすべく行動を開始する‥‥


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アメリカの一般の劇場でかかるアジアの映画は、韓国映画だろうが日本映画だろうが限られている。その中では韓国映画はわりと世界的に見てもそれなりの地盤を築いているという感じがするが、それでもやはり、少なくともアメリカで韓国映画というと、一般的にはホラーという印象が強い。サンダンス・チャンネルでは日曜深夜に「エイジア・エキストリーム」というアジアの映画を特集しているが、タイトルが示唆する通り、ホラー、それも韓国産のホラーが圧倒的に多い。


「エイジア・エキストリーム」はあまり見るチャンスのないアジア映画に触れることのできる数少ない機会の一つだが、玉石混淆だ。つまらない作品もあるが、とはいえ、私はキム・ギドクという映画作家の名はこの枠で知った。映画館では見るチャンスのなかったキムの作品を、TVとはいえほとんど見ることができたのはサンダンスのおかげだ。私のようにアジア系じゃなくても、サンダンスでキムやアジアの映画人の名を知ったアメリカ人はそれなりにいるに違いない。サンダンス主宰のロバート・レッドフォードは偉い。ちゃんと仕事している。


「母なる証明」を撮ったボン・ジュノは、アメリカでも知られている数少ないコリアン・フィルムメイカーの一人だ。「グエムル -漢江の怪物- (The Host)」は珍しくもニューヨークでもちゃんと劇場公開された。とはいっても当時私の住んでいたクイーンズまで来て公開されたわけではないので見てはいないが、それなりに話題になったのでよく覚えている。たぶんキムの次によく知られている韓国人映画作家ではないか。


「グエムル」はたぶん興行的にもいい線行ったのだろう、そのボンの新作「母なる証明」は、なんと現在私の住んでいるニュージャージーでも劇場で公開されることになった。私の記憶している限り、マンハッタン以外で、少数ではあるが単館ではなく劇場公開される初めての韓国映画じゃないかという気がする。ニュージャージーのフォート・リーは、クイーンズのフラッシングと並んでニューヨークで最もコリアンの密度が高く、町中はハングルの看板だらけだ。そのコリアンの集客を見込んだ公開だろう。いずれにしても、特別な映画祭ならともかく、一般劇場で韓国映画を見る機会なんて今後いつあるかわからないし、少なくとも推されているんだろうし、これは見るしかあるまいと劇場に足を運ぶ。


わりと評判になっていた証拠にそれなりに客は入っていたが、前後左右に座っている者はほとんど皆白人のアメリカ人で、アジア系らしき者は我々夫婦以外いなかった。コリアン・タウンに近いのに、わざわざ見に来ているのは白人ばかしか。たぶんコリアンは、既にDVDでこの作品は見ているのではないか。もう旬は過ぎているのだろう。さもなければコリアン映画で観客にコリアンがまったくいないという状勢が説明できない。


ところで英タイトルの「マザー」で思い出すのは、ロジャー・ミッシェルの「ザ・マザー (The Mother)」だ。ただしこちらの母親は、自分の子供たちのことを気にするどころか、自分の年齢を顧みずに若い男に溺れていく母親を描く作品だった。ただしこちらの母親がめったにない例というのは、定冠詞つきの「ザ・マザー」になっていることからもわかる。「マザー」という定冠詞なしの一般的な母親から連想するのは、やはり自分の子供たちのためには何ものも惜しまず怖れず尽くすという母親像だろう。


韓国の寒村で一人息子のトジュンと一緒に住む母は、トジュンのことが気がかりでしょうがない。少々おつむの弱いトジュンは、純な心を持っているが、そのため人に利用されやすい。ある時その村で女子高生の殺人事件が起きる。その子がトジュンが持っていたゴルフ・ボールを持っていたことから、トジュンは殺人犯として逮捕される。トジュンが人殺しなどできる性格ではないことを知っている母は必死で彼の無実を主張するが、しかし刑事も弁護士も、ほとんど聞く耳を持たなかった。誰もあてにできないことを悟った母は、自力で真犯人を見つけるべく調査を開始する。


昔から洋の東西において母の愛は強いものとされてきたわけだが、それはここでも変わらない。ただし「母なる証明」はミステリ仕立てであり、母が殺人事件の真犯人を追いつめるという筋書きになっている。そのため単なる情愛ものではなく、犯罪ミステリとしても楽しめる構造になっている。


こういう風に感想記を書こうとすると意識させられるのが、主人公である母は、主人公のくせして名前がないことだ。固有名詞はなく、母は母なのだ。どの母も、母である限りたぶん同じ行動をとるだろうという暗黙の了解がある。だから名を必要としない。母は名前ではなく、お母さんと呼ばれる存在だ。


最近、同様に主人公に名前がなかった作品として、ロマン・ポランスキーの「ザ・ゴースト・ライター (The Ghost Writer)」があった。もちろんその趣旨は異なり、ゴースト・ライターとは、本人に成り代わって代筆する者のことだから、逆に名があるとまずい。わざと隠している。裏に隠れているためにわざと名前を明らかにしない主人公と、いつも目の前にいながら母であるという理由のために名前を必要としない主人公。それにしても誰も自分の名前を呼んでくれないなんて。つまり母の愛は無償であり、特権的に息子の無実を信じられる。息子が犯罪を犯していない理由なんて必要ない。私は母だから、無条件に息子を信じてもいいのだ。



(注) 以下作品のクライマックスの展開に触れてます。


作品は徹底して息子の無実を信じて尽力する母親の姿を描き、観客は彼女に感情移入させられるために、後半、事件の目撃者の登場によって本当に息子が殺人者であったことが判明すると、まったく違う絵を見せられることになる。知能が低いために、なおのことバカ呼ばわりされると激昂するトジュンは、女子高生からバカにされ、我を忘れコンクリートの塊を投げつけて女子高生を殺してしまったのだ。


記憶力が特にいいわけではなく、酒も入っていたトジュンは、自分がしたことを忘れてしまう。しかし本気で人を殺したいわけではないトジュンは、誰かが彼女を発見してくれるようにと、わざわざ屋上に彼女を運び上げて、人の目につきやすいように縁にもたれかけさせる。それが犯罪者が自分の獲物を誇示しているかのような猟奇的な印象を与えたために、逆にトジュンぽくないと人々は思った。もちろんそれがどういう展開であろうと母は息子の無実を信じたろうが、息子自身が自分のしたことを覚えていなかったために、事件は要らない展開を見せることになった。


話としては意外で面白いのだが、一つえっと思ったのがコンクリート塊で、トジュンは、自分に投げつけられたコンクリート塊に激昂してその塊で女子高生を惨殺するという筋書きになっている。しかし、そのコンクリート塊は、どう見ても15kgくらいはありそうな代物なのだ。トジュンはともかく、特に身体も大きくないアジア系の女子高生が、ちょっと頭に来たくらいでそんなものを持ち上げて投げつけきれるだろうか。


とにかく私がその塊を見た瞬間に感じたことは、この女の子がこんな塊、10m近くも投げるどころか、持ち上げることすら不可能なんじゃないかということだった。事実を知ったカタルシスより、もっと疑問が持ち上がってしまった。これじゃほとんどワンダー・ウーマンだ。というか、セーラー服を来ているから連想するのはほとんどセーラームーンだ。ここは別にコンクリートを投げつける必要はなく、トジュンを怒らせる言葉だけで充分足りると思ったのだが、ボンはもっとインパクトのある視覚的な何かをどうしても入れたかったのだろう。話としての見せ場は、自分の息子が実際に殺人犯だったことを知った母の反応にあり、そこからが本当の見せ場とすら言えるのだが、しかし、私はどうしても怪力無双の女子高生のイメージが頭の中で明滅してしまう。








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