Monster   モンスター  (2004年2月)

幼い頃から皆からつまはじき者にされがちだったリー (シャーリーズ・セロン) は、長じて身体を売ってその日暮らしをしていた。ある日、バーに入ったリーは、やはり友達のなかった若い女の子のシェルビー (クリスティーナ・リッチ) から話しかけられ、最終的に二人は意気投合する。町を飛び出して新しい生活を始めようと計画する二人だったが、それには金がなく、リーは以前にも増して頻繁に身体を売るようになる。ある時、サディスティックな男に拾われ、殴られてレイプされたリーは、車にあった銃で男を射殺してしまう‥‥


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ちょっと古い話になるが、こないだニューヨーク・タイムズを読んでいたら、面白い話が載っていた。なんでも、最近の映画はCGを多用するせいになったおかげで製作関係者の数が大幅に増えた。しかもユニオン・ルールのせいで、製作に携わった者はすべてクレジットされなければならないため、作品の最後のクレジット・ロールが年々長くなっているのだそうだ。「ロード・オブ・ザ・リングス 王の帰還」の場合、エンド・クレジットだけで延々と9分33秒も続いたそうで、既に短編映画並みの時間を、ただ人の名前の羅列だけに費やしてしまう。


もちろん「ロード・オブ・ザ・リングス」以前から、気の短いアメリカの観客はエンド・ロールが始まったら席を立って劇場を後にしていたのだが、少なくとも日本の場合、10年前までは、ほとんどの観客がクレジット・ロールが終わるまで椅子に座っていた。しかし、いくらなんでも、現代の日本人が本編が終わった後、ただ人の名前を見るためだけに10分間も座りっぱなしでいるとは思えない。それとも、3時間半も我慢したから、あと10分くらいなんだとでも思うのだろうか。


さて、「モンスター」であるが、実話の映像化で、とにかく本人の素顔がまったく想像できないほどのブス・メイク+デブ・メイクで役に入れ込むセロンの突貫演技が話題となった。その上、役柄はシリアル・キラーである。なんであんたみたいな美人がここまで顔を崩して人殺しにならなければならないと唖然とするが、本人は、これまでの、ただ美しいだけの刺し身のツマみたいな役ばかりにうんざりしていたようだ。どうしても演技がしたいというか、自分が演技ができることを証明したかったのだろう。


しかもよく考えると、この役自体は、現実に起こった事件の本人がそれほど美しくないということを除けば、実際、セロン向きの役だ。セロン、アシュリー・ジャッド、ケイト・ブランシェットの3人は、美人だが殴られると映え、自分たちもそれを自覚しているという点で、私は個人的に「殴られ系」と呼んで応援しているのだが、それを考えると、今回のセロンの役柄は、ちゃんとそのツボを押さえている。


ただし、今回はそれを一気に頂点にまで押し進め、顔まで変えてしまったということがポイントだ。彼女らが「殴られ系」女優として映えるのは、あの美形の元の顔があるからこそで、それが殴られて歪んでしまうからこそ見る者に嗜虐的快感を呼び起こすのだが、ブスを殴ってもっと顔が崩れたからって、なにも面白くない。少なくとも私はそうだ。セロンを見に行って、まったくスクリーンにセロンがいないのでは、セロンがやる意味はない。ただし、もちろんこの見方には裏があって、最初から美人と知っているセロンが、作品中ずっと、まるで殴られた後であるかのような顔で通すことに意味があるとも言える。そういう見方をするならば、なるほど、確かに元のセロンを頭の中に思い浮かべて比較することで、上映中、ずっと楽しめるわけだ。


しかし私が思うのは、それでも、万人が美しい女優だと知っているセロンが、たとえ実在の本人の顔に似せるためにせよ、そこまで手を入れる意味があるかということだ。実際の話、メイク後のセロンはかなり実物に似通っており、そういう点では、完璧を期した姿勢とメイキャップ技術に称賛を惜しむものではない。あそこまでやるからには、毎日、撮影前に少なくとも2時間くらいはメイクに時間をとられたはずであり、その努力には頭が下がる。


とはいえ、なぜそれをセロンがやらなければならなかったか。失礼な物言いになるが、もしセロンほど綺麗でない女優がこの役に挑戦すれば、メイクにそれほど時間がかかったとは思えないし、第一、特に実物に顔を似せようとは考えなかったのではないか。つまり、セロン、及び製作サイドがそこまで実物に似せることにこだわったのは、ここで似ていないと、ただセロンが汚れ役をやりたかったからという自己満足につきあっただけと言われることに怖れたからではないかと邪推してしまうのだが。


つまり、この映画を見て私が最も強く感じたのは、セロンはずるいということだ。だって、この役をやって、誉められこそすれ、貶されるいわれなどないことは、最初からわかりきっている。体当たりで汚れ役に挑戦する俳優に対し、面と向かって「よくない」と言える批評家や人間はあまりいない。実際、セロンは役になり切って、かなりの演技を見せているのだ。


それでも、セロンはこういうブスい汚れ役にも挑戦できるだろうが、セロンほど美人でない女優が、今度は逆にセロンが最も映えるはずの上流階級のお嬢様的な役ができるかというと、これは無理だろう。いわばセロンは、本来なら、そういう性格俳優こそ挑戦するに相応しい役を横からかっさらっていったのだ。もちろんそのおかげでのこの話題性なのだが、私はどうしても、「インチキだ」、と小さく呟いてしまう。それとも、やはり美人女優の方が得と納得するしかないのだろうか。


どちらかというと私が感心したのはセロンのパートナー、シェルビーに扮するクリスティーナ・リッチの方で、相も変わらずこういう癖のある役ばっかで、しかも出演作が途切れない。こういう作品に出ると、地とも演技ともつかない、独特の存在感がある。インディ映画のプリンスと呼ばれるベニシオ・デル・トロの対極にいる、インディ映画のプリンセスなのは間違いないだろう。今に二人は共演するに違いない。


とまれ美人女優が汚れ役に挑戦すると、注目を集めやすいのは確かである。つい最近の例で思い出すのが「チョコレート (Monster's Ball)」のハリー・ベリーで、まあ、こちらは顔がそれほどブスくなっていたわけではないが、貧窮に喘ぐ死刑囚の妻といった役どころが、オスカー獲得の一助になっていたことは否定できまい。そして今セロンである。考えればタイトルも「Monster」と、「Monster's Ball」の轍を踏んでいる。これはセロンが今年のアカデミー賞の主演女優賞を獲得する可能性は、かなり高そうだ。少なくともメイキャップ賞は確実だろう。






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