Mirror Mirror


白雪姫と鏡の女王  (2012年4月)

とある時代のとある国の王妃 (ジュリア・ロバーツ) は、実は魔法を使う魔女だった。彼女にとって、日に日に美しくなる王の前妃の娘スノウ・ホワイト -- 白雪姫 (リリィ・コリンズ) は、目の上のたんこぶだった。ある時、国を訪れたプリンス・オルコット (アーミー・ハマー) は7人の小人の盗賊に襲われ、身ぐるみ剥がされて王宮に招き入れられる。プリンスをなんとか王に迎えようと画策する王妃は、臣下のブライトン (ネイサン・レイン) に、邪魔なスノウ・ホワイトをなき者にするよう命じる。しかしブライトンはスノウ・ホワイトを殺すにしのびず、結果、スノウ・ホワイトは7人の小人によって匿われる。しかし王妃は、鏡の魔力によってスノウ・ホワイトがまだ生きていることを知る‥‥


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「ミラー・ミラー」--「鏡よ鏡」、すなわちグリム童話の「白雪姫」--スノウ・ホワイトの話だ。視覚的中世ものというジャンルは、色々捻りを加えたり設定を変えて、それこそ先週見た「ハンガー・ゲーム (The Hunger Games)」でも変奏されている。この時代はえらく想像力を刺激するらしい。


あるいは、昨年の「赤ずきん (Red Riding Hood)」という例もある。最近、今度はシャーリーズ・セロンが王妃を演じる、こちらはシリアスな「スノーホワイト (Snow White And The Huntsman)」の予告編もかかり始めており、童話の翻案というのも流行りか。考えればこれらの作品が世に出るより何年も早く、宮崎駿は既にそういう世界を舞台にして作品を作っていた。


今回のターセム・シンによる映像化は、コメディだ。ターセムらしくヴィジュアルに凝った映像で、悪い王妃を演じるのはジュリア・ロバーツ、スノウ・ホワイトを演じるのがリリィ・コリンズだ。コリンズを一見して印象に残るのはしっかりした眉で、角度によってオードリー・ヘップバーンを思い出したりデニス・リチャーズを連想したりする。


一方、キャラクターとしては、今回の王妃とスノウ・ホワイトが特にグリム童話の印象と異なるわけではない。ロバーツもコリンズもきゃぴきゃぴした味をキャラクターに付加しているが、それほどオリジナルの話のキャラクターから逸脱しているという印象は受けない。今回斬新なキャラクター設定として際立っているのは、プリンスと7人の小人の方だ。


7人の小人は、小人ではあるが、最初、衣装やギミックで大男の盗賊として登場する。少なくとも悪者という設定だ。ディズニーの「白雪姫」で育った世代には、かなり受け入れ難い設定かもしれない。プリンス・オルコットはその7人の盗賊に身ぐるみ剥がされ、上半身裸で王妃に謁見せざるを得ない。プリンスのくせにほとんどいいところがない。それなのにプリンスという身分のおかげで、王妃からは求愛されるし、誰もプリンスとスノウ・ホワイトの純愛を疑わない。やっぱり血筋というのは重要なのだった。ま、中世だし。プリンス・オルコットに扮するのがアーミー・ハマーで、いかにもそういう顔している。


ところで「白雪姫」というと、誰でも即座に連想するのは、まあ、主人公スノウ・ホワイトと王妃を別格とすると、7人の小人、鏡、毒りんごの、3つのサブ・キャラ/プロットだろうと思う。特に毒りんごを食べさせられ、眠りについたスノウ・ホワイトが、プリンスのキスによって目覚めるというのは、話としてはクライマックスで、それまでのすべてのストーリーが、この一点に向かって収斂していかなければならない。コメディだろうと変奏だろうと、どうやってそういうクライマックスになるかを観客が期待しているのは言うまでもない。逆に言うと、毒りんごとプリンスのキスがなければ、それは「白雪姫」ではないと断言してもいいくらいだ。


ところが今回、その毒りんごはほとんど現れない。あることはあるが、ほとんど話に貢献しない。プリンスは毒りんごを食べて眠りについたスノウ・ホワイトにキスをして目覚めさせるのではなく、その気になったスノウ・ホワイトから強引に唇を奪われるのだ。今風といえば今風ではある。洋の東西を問わず、どうも男より女の方が物事に積極的であるようだ。


それはともかく、毒りんごが話にほとんど貢献しないのは、ちょっとがっかりだった。世界中の童話お伽話の中の、別格とも言える小道具の中の小道具、お伽話史上燦然と輝く最も有名な小道具、毒りんごを自由に話に絡める立場にいながら、それを使わないなんて。


たぶん、毒りんごは話の中の一瞬のイメージとしてはともかく、毒りんごそのものが一つのイメージとして確立しなかったから、敢えて外したのではないだろうか。ヴィジュアル派のターセムは、明らかにまずイメージを先行させて、そこから話を膨らませていくという印象が濃厚だ。小人を巨人にするという発想は、ヴィジュアル派ならではだろう。毒りんごだって、人によってはかなりイメージ的にも来るものがあると思うが、単にターセムにとってそうではなかったということなのだろうか。


ターセム作品をそう何度も見ているわけではないが、彼が演出した作品に出てくる食べ物は、ほとんど印象に残らない。今回も何度も登場人物が食事をするシーンがあるのにだ。宮中の晩餐やら小人たちの食事やら、アメリカ映画なら、ここで食べ物を粗末に扱い過ぎると他国の人間が眉をしかめるくらい、食べ物を投げ散らかしての乱闘になるのが筋というものだ。ところがまったくそうならない。


要するにターセムにとって食感、食欲より視覚が勝るため、ほんのこぶし大の大きさしかないりんご1個に特に興味を惹かれなかったのではと思ってしまう。じゃなければ、なんでここまで世界で最も有名な小道具を無視できるのか、理解に苦しむ。ターセムはインド系だが、インドではりんごはあまり食べず、特に幼い頃から親しんでいるわけではないから、りんごに対してイメージが湧かないとか、ヘンに妄想してしまう。


と、りんごを利用しないことが最も印象に残ってしまったのだが、だから作品が面白くないかというと、まったくそんなことはない。充分楽しんだ。イメージ先行の作品は、それだけを楽しめるという利点もある。特に、これまでずっとターセムの衣装を担当してきた石岡瑛子の衣装はやはり素晴らしい。今年のオスカー授賞式の追悼のコーナーでEiko Ishiokaという名前を見た時は、えっ、石岡って死んじゃったの、まだそんな歳じゃないんじゃないのと思ったのを思い出した。


今回もロバーツが着ているふりふりの衣装なんて、これ、作るのにめちゃ手間暇かかるだろうなと思いながら見ていた。かと思えばコリンズのでかいリボンの衣装も印象的で、特に着るものを気にしない私ですら、この衣装のデザイン、いいなと思わせる。作品が終わると、最後にはIn Memory of Eiko Ishiokaという一枚テロップが挟まれる。石岡あっての「白雪姫と鏡の女王」なのだと思わせてくれた。









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