Minority Report

マイノリティ・リポート  (2002年6月)

昨年、キューブリック原案の「A.I.」を映像化したスティーヴン・スピルバーグが、今年もまたSFものを演出する。とはいえ、実はアメリカに住んでいると、最近スピルバーグの名前を最も頻繁に聞くのはこれらの映画作品ではなく、TVにおける第二次大戦をテーマにしたドキュメンタリーの諸番組である。


ハリウッドというのは基本的にユダヤ系の人間が牛耳っており、虐げられた過去を忘れまいという意識が強いので、映画産業を中心に必ず定期的に第二次大戦を舞台とする作品ができる。これらは単にアクションとしての戦争映画ではなく、ヒューマン・ドラマとしての戦争ものになりやすいのが特色だ。そしてTVもその例に漏れず、第二次大戦をテーマにしたドキュメンタリー製作が途切れることはない。


スピルバーグは自ら率先して過去を忘れまいと世界に向かって発言するユダヤ人として、最も精力的に活動している映画作家の一人である。特に最近、TVでのドキュメンタリー番組におけるプロデューサーとしてのスピルバーグの働きぶりは目覚ましく、ペイTVのHBOやシネマックス、公共放送のPBSで放送された第二次大戦もののドキュメンタリーのほとんどにスピルバーグの名がエグゼクティヴ・プロデューサーとして挙がっており、彼が関係しない戦争ドキュメンタリーを探すことの方が難しいくらいだ。ドラマでも「バンド・オブ・ブラザース」なんて大作もあった。実際、スピルバーグの名が製作者としてクレジットされていると、それだけで露出度はぐんと上がる。たとえ名を貸しただけで実際の製作自体にはタッチしていなくても、スピルバーグにとっても、実際の番組製作者にとっても利点があるのだ。


最近の傾向としては、スピルバーグは「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」のような第二次大戦ものを自分で演出するよりも、そちらの方はドキュメンタリーとして他の映像作家に任せ、自分自身は最も得意なSFの方に専心しようとしているように見える。私もどちらかというとそちらの方がありがたい。娯楽映画を撮らせれば観客を楽しませるコツを心得ているスピルバーグだって、戦争映画になると、どうしても一言多くなることを抑えようがないみたいだし、たとえスピルバーグが絶対的に正しいことを言っていようとも、私は映画を見に行って説教を受けようという気には到底なれない。それこそドキュメンタリーの方がそういうことをするには向いている媒体だろう。頼むから娯楽映画に専念してくれとずっと思っていた。だからスピルバーグが「A.I.」に続いて「マイノリティ・リポート」を監督すると聞いて、なんとなくほっとしたものだ。


「マイノリティ・リポート」はフィリップ・K・ディックの作品を映像化したものである。西暦2054年、プリ・コグ (Precognition: 予知能力の略) と呼ばれる者たちの力を借り、犯罪が起きる前に事前に察知してそれを阻止するという組織、プリ・クライム・ユニットが設立されていた。ある時プリ・コグがプリ・クライム・ユニットのチーフ、ジョン・アンダートン (トム・クルーズ) が人を殺すシーンを予知したことで、ジョンは逆にユニットから追われる羽目になる。何かの陰謀を感じるジョンだったが、しかし、情勢はプリ・コグが予知した通りに進む。ジョンは本当に殺人を犯すことになるのか‥‥


「マイノリティ・リポート」のセールス・ポイントは、スピルバーグとクルーズの組み合わせということに尽きる。考えてみると、ハリウッドを代表する二人がこれまでに一緒に仕事をしたことがなかったというのも不思議だが、これだけのビッグ・ネイム同士になると、エゴのぶつかり合いになってかえって一緒に仕事はしにくかろうというのは確かにある。どんな作品に出演しても最終的には自分のプロモーション・ヴィデオにしてしまうというクルーズが、スピルバーグと組むとどうなるのか。


見終わった印象からいうと、実はこれが面白かった。クルーズは最初から最後まで出ずっぱりの、いつもと同じような一人芝居なのだが、随所にスピルバーグならではの演出が見られ、二人が喧嘩したというよりも、二人共長所を発揮して、見応えのある娯楽作品としてでき上がったと言える。2時間半というわりと長尺の部類に入る作品なのだが、見てる間まったく退屈しなかった。スピルバーグ、やはりうまい。


フィリップ・K・ディック作品の映像化で近未来ものということで、「マイノリティ・リポート」は真っ先にリドリー・スコットの「ブレードランナー」と較べられると思うが、「マイノリティ・リポート」では始終雨が降っているわけではなく、「ブレードランナー」ほど鬱々たるイメージはない。しかし、やはりディック特有の、どちらかというと明るくはない未来という点では共通している。こういった印象を受ける理由としては、作品の主要な舞台であるプリ・クライム・ユニットが、基本的に潜在的に犯罪者ではあってもまだ犯罪は犯していない事実上無実の人間を逮捕するという、何やら胡散臭いユニットであるということも関係しているだろう。しかし、別にディックに限らず、最近のSF映画で明るい未来を謳歌するというような作品を見た記憶はない。考えたら、ディズニー映画以外で明るい未来なんて映画は元々ほとんどないか。


クルーズ はプリ・コグが予知したことを透明なグラス上のスクリーンに映し出し、犯罪者 (になろうとしている者)、および犠牲者 (になろうとしている者) を判読する。当初それらは断片としてのイメージでしかないため、イメージを適切に解読する技術が必要で、クルーズはそのエキスパートなのだ。面白いのはプリ・コグが予知した結果は最初、赤玉、白玉として現れる。それぞれが「犠牲者」および「犯人」を意味しており、玉には次の犠牲者と犯人の名が刻み込まれていることだ。なんか、歳末大売り出しの福引きのような玉が転がり落ちてきて、こいつが次の犠牲者、なんてやるのが、それまでのハイ・テクとは逆にロウ・テクで、少しおかしかった。


おかしいと言えば、基本的にシリアスな話なのに所々笑えるのが、いかにもスピルバーグっぽい。追われる身になったクルーズは、IDを変えるために眼球の移植手術を受けるのだが (すべての人間の虹彩は登録されており、他人になりすますには眼球を移植するしかない)、その辺りの演出は、手術直後でまだ包帯がとれないクルーズがどうやって蜘蛛型の追跡ロボットから逃れようとするかという点も含め、いかにもスピルバーグという妙味に溢れている (もぐりで手術をする医者に扮するのがピーター・ストーマーで、彼は「9デイズ (Bad Company)」にも出ていた)。


プリ・コグは3人おり、その中で最も能力の高いのが、「当然」女性のプリ・コグということになっている。その女性アガサを演じるのがサマンサ・モートン。プリ・コグの予知には、ほとんどの場合、間違いというものはないのだが、稀に事実と相反することが起きる。そのマイナーな事象を印したのがマイノリティ・リポートで、ジョンは自分が犯罪を起こすのではないということを証明するため、そのリポートを追う。ジョンの上司であり、そもそものユニット設立の立役者であるラマー・バージェスに扮するのが、マックス・フォン・シドウ。この人、「ヒマラヤ杉に降る雪」では手がぶるぶる震え、ここでは痰が咽喉に絡んだりと、まあ、確かに実際に歳はとっているのだが、本当は矍鑠としているくせに老人くさい老人をやらせると随一という役者である。やたらと顔がでかい歌舞伎顔で、身長も高く、舞台に立つとえらく映えそうだ。


「マイノリティ・リポート」は、クルーズ主演/スピルバーグ監督のわりには、老若男女の誰でもが楽しむにはちょっと暗い印象が強すぎ、筋金入りのSFファンを喜ばせるには、ちょっと観客にサーヴィスし過ぎという嫌いがある。多分この映画が貶されるとしたら、そのどっちつかずの点であり、誉められるとしたら、その両方に目配せしながら、両方ともある程度は納得できるレヴェルに達しているからということになろう。言うは易く行うは難しの難業に挑戦してある程度の成功は収めているわけで、これは大したものだと言えると思う。クルーズが出るから見る、スピルバーグが監督しているから見る、というファン・ベイスが確立していることもあるだろうが、この二人が関係している作品には、少なくとも興行的に失敗する作品は (最近では) ほとんどない。こういった観客の好みや流行りを判断する目利きとしても、この二人の嗅覚は群を抜いている。だからこそ生き馬の目を射貫くハリウッドで、長い間一線にいられるのだろう。







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