Midnight in Paris


ミッドナイト・イン・パリス  (2011年6月)

婚約中のジル (オーウェン・ウィルソン) とイネス (レイチェル・マクアダムズ) は、たまたまビジネスの用事があったイネスの両親のジョン (カート・フラー) とヘレン (ミミ・ケネディ) と共にパリを訪れる。作家としては既に壁にぶち当たっているジルはロマンティックなパリに一目惚れし、ここに住みたいと思うが、現実的なイネスは聞く耳持たない。ある日別行動して夜遅く一人でホテルを目指したジルは、年代物のクルマに乗る一行に誘われる。連れられて行った先はなぜだか1920年代のパリにタイム・トリップしており、ジルがカフェで出会ったのは、コール・ポーターにスコット (トム・ヒドルストン) とゼルダ (アリソン・ピル) のフィッツジェラルド夫妻だった。さらにヘミングウェイ (コーリー・ストール)、ピカソ、ダリ (エイドリアン・ブロディ)、マティス、ブニュエル、T. S. エリオット、ガートルード スタインといった時代を代表するアーティストの面々が次々とジルの前に姿を現し、さらに影を持つ美女アドリアーナ (マリオン・コティヤール) に心を奪われそうになるジルだったが‥‥


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依然創作意欲の衰えないウディ・アレン、コメディとシリアス・ドラマを両方定期的に撮るというスタイルで共通しているのは、実は撮る作品にはほとんど共通点の見えないコーエン兄弟だ。いずれにしても、今んとこ笑いは実生活とTV中心で特に劇場に行ってまでコメディを見たいとは思わない私の場合、当然両者で共に気になるのはシリアス・ドラマの方、特にクライム・ドラマだ。


正直言ってアレンの「夢と犯罪 (Cassandra’s Dream)」は傑作と思ったし、コーエン兄弟は「トゥルー・グリット (True Grit)」はもちろん、いまだに「ノー・カントリー (No Country for Old Men)」の印象は強烈で古びない。両者にまたクライム・ドラマを撮ってもらいたいばかりに、サポートの意味でコメディも一応見に行くというのが、近年の私のスタンスになっている。


問題は両者ともその比率が、コメディ対ドラマで2:1もしくは3:1と、圧倒的にコメディの比率が高いことだ。なんとかこれが1:1とは言わないまでもせめて1.5:1くらいになってくれないものかと思っているのだが、ドラマはやはりより大きなエネルギーを消耗させられるからか、それとも単純にコメディの方が好きなのか、あまりこの比率が改善される見込みはない。


とはいえアレンの今回の「ミッドナイト・イン・パリス」は、近年のアレン・コメディとしては最も受けがいい。もちろん、「それでも恋するバルセロナ (Vicky Cristina Barcelona)」ではペネロペ・クルスがアカデミー賞にノミネートされるなど評価もされているのだが、「ミッドナイト・イン・パリス」の場合は、一般客の口コミもいい。実は先週「ミークズ・カットオフ (Meek’s Cutoff)」を見た時はがらがらの場内で、上映途中さらに観客が減ったのだが、ロビーで横を見ると「ミッドナイト・イン・パリス」の方はジジババを中心にかなり盛況で、人気があるのが見てとれる。結構気になる。


「ミッドナイト・イン・パリス」の舞台は、パリだ。「マッチ・ポイント (Match Point)」、「タロットカード殺人事件 (Scoop)」、「夢と犯罪」のロンドン3部作を撮った後、スペインに行って「それでも恋するバルセロナ」を撮り、本拠ニューヨークに帰って「人生万歳! (Whatever Works)」を撮ったと思ったらまたロンドンに戻って「ユー・ウィル・ミート・ア・トール・ダーク・ストレンジャー (You Will Meet a Tall Dark Stranger)」を撮る。そして今回の舞台はパリだ。これっていったい何? なんでこんなに頻繁に舞台を変える必要があるのか。その必然性はあったのか。


考えてみると、アレン作品というのはへたに重々しくしたり、思い入れを感じさせることなく、最も経済的に効率よく物語を語るということに特徴がある。元々フットワークは軽いのだ。チャンスがあれば世界中どこにだって気軽に行けるだろう。機材や撮影スタッフなんかは必要最小限で賄ってしまうと思う。単に海外から、うちで撮ってみませんかという誘いが来たのに乗っただけだったりするのかもしれない。


最近のアレンの作品を見ると、運命だとか予言だとか占いだとかいうのが、かなりキー・ワードとして頻繁に作品に登場する。むろんペテン師を含め預言者や占い師は昔からアレン作品によく登場するが、それにしても近年のアレン作品は、決められた運命に対してどう対処するか、折り合いをつけるか受け入れるか抗って新しい運命を導き出そうとするかということに焦点が合っているようだ。それがコメディとなるかそれともドラマとなって世に出るかは、アレンの内部でそれらを消化してアウトプットする時の出口の違いというだけで、本質には差がないような気がする。アレンは結局コメディでもドラマでも同じことをやっている。


「ミッドナイト・イン・パリス」では、主人公ジルはちょっと壁にぶち当たっている作家で、ほとんど逃避でパリに住みたいと思っている。しかし現実家の婚約者イネスは、そんなジルを一笑に付す。ある夜、一人で散歩がてらホテルを目指して歩いていたジルは、道に迷う。そこに現れたのは年代物のクラシック・カーで、乗っていた陽気な酔客たちに請われるまま車中の人となったジルが連れて行かれた先は、1920年代の黄金時代のパリだった‥‥


というストーリーで思い出すのは、アレンの「カイロの紫のバラ (The Purple Rose of Cairo)」だ。あれはスクリーンの中の人間がこちらの世界に現れるという話だったが、今回は逆にこちらの世界の人間が時を超えてあちらの世界に行ってしまう。別の世界に入り込んでしまうという点では、同時期の「カメレオンマン (Zelig)」も思い出す。なんだ、結局アレンは昔から同じことしてんだな。


今回の場合は、なんといっても過去の著名人に扮する俳優陣たちが楽しい。スコット フィッツジェラルドに扮するのは「マイティ・ソー (Thor)」のトム・ヒドルストンだし、ヘミングウェイに扮するのは「ロウ&オーダー: LA (Law & Order: LA)」のコーリー・ストールだ。禿げてないということは、これはかつらを被ってんだな。あ、もしかしたら「ミッドナイト・イン・パリス」の撮影は「LA」撮影前に終わっていて、「パリス」撮影後に伸びていた髪をばっさり切ったというのもあり得るか。


ガートルード スタインに扮するキャシー・ベイツは今NBCの「ハリーズ・ロウ (Harry’s Law)」に主演中で、実はこの番組は先頃最終回を迎えたストールの「LA」枠に翌週から再放送が編成されている。「パリス」でもヘミングウェイの作品をスタインが評するという間柄であったわけだし、ベイツはどうもストールの骨を拾う役回りらしい。ダリに扮するエイドリアン・ブロディには受けた。本人も楽しそうに演じている。その他、ピカソやロートレック等、一目で誰が誰だかわかるキャスティングには、思わずにやりとさせられる。


主演のジルに扮するオーウェン・ウィルソンも、イネスに扮するレイチェル・マクアダムズもいいのだが、今回ばかりは脇の方が楽しい。現フランス大統領夫人のカーラ・ブルーニも出ているし、マイケル・シーンがわりと嫌みな役もできることにも感心。ただし最初シーンが出てきた時は、てっきりエイダン・クインだとばかり思っていた。


ところで、運命というと、今、巷で騒がれているのは、どう見ても優勢だったのはアメリカだったのに、終わってみると勝ったのは日本だったという女子ワールド・カップ・サッカーの決勝だ。なぜアメリカは勝てなかったのか。試合の翌日のメディアの論調は、これが運命だったのだというものが大半を占めた。というか、ほとんど全部がそう言っていた。実際、あれは運命論を掲げない限りほとんど説明不能の展開だった。アメリカ・チームの人間ですら今回はそういう運命だったんだと言っていた。


果たして運命というのは覆すことができないものなのか。だからこそ運命なのか。それともそこに何らかの楔を打ち込むことができるのか。アレンが解答を探し求めているのはそれなんじゃないか。しかし今回のワールド・カップを見る限り、その可能性はない、だからこそそれは運命と呼ばれるのだという命題が一層確実になったという気がする。それでも、アレンは再び時間を超え物理法則を捻じ曲げ、その可能性を模索し続けるに違いない。









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