Maria, Full of Grace   そして、ひと粒のひかり  (2004年10月)

コロンビアの小さな村の花工場で働いているマリア (カタリーナ・サンディーノ・モレノ) だったが、仕事は面白くなく、上司はわからずやで、出戻りで赤ん坊のいる姉は、マリアが稼いでくる金を当然のように当てにしている。その上、惰性で付き合っている恋人との間に子供ができてしまうが、何も考えずにできちゃった結婚を口にする恋人をマリアは我慢できない。マリアはある日、いい働き口があるからと声をかけられる。それは、ドラッグを呑み込んで飛行機に乗り、コロンビアからニューヨークまで密輸するキャリアという危ない仕事だった‥‥


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信じられない。実は先週から近くの劇場でジョン・セイルズの「シルヴァー・シティ (Silver Sity)」の公開が始まっており、先週見に行こうかどうか迷ったのだが、インディ映画専門のその劇場は、小さな小屋が五つ入ったマルチプレックスなのだが、そのどれもが小さく、早めに行っていい席を確保しないと、前の人間の頭が邪魔でスクリーンがよく見えなかったり、それこそスクリーンに無茶苦茶近い席しか空いてなかったりする。それでここで見る時は、混んでいる公開初週に見ることはせずに、すき始める2週目以降に足を運ぶことにしている。


それで今回も公開初週はパスし、今週「シルヴァー・シティ」を見に行こうと思っていたのだ。そしたらなんと、「シルヴァー・シティ」をやってないのである。それだけじゃない。ニューヨーク地域のほとんどの劇場から、既に「シルヴァー・シティ」が姿を消してしまっているのだ。なんてこった、いくらセイルズとはいえ、今回の「シルヴァー・シティ」の評が特にいいわけではないということくらいは私も知っていた。しかし、「ローン・スター」でも渋い演技を披露したクリス・クーパーを、今度は政治家として描いた風刺劇ということだけでも、評のことなんか気にせず見に行くつもりでいたのに。一般大衆は私ほどセイルズに対して思い入れはなかったようだ。


それで急遽、これまでなんとなく気になってはいたが見ないままだった「マリア、フル・オブ・グレイス」を見に行くことにする。実はこの作品、公開して既に3、4か月くらい経つロング・ラン映画である。今年、インディから現れたヒット映画としては、まず真っ先に「オープン・ウォーター」、それに「ガーデン・ステイト」が思い浮かぶが、「マリア」は既にそれらを凌ぐロング・ランになっている。このままだと、たぶん今年最大の隠れたヒットとなりそうだ。しかし、そのわりには身近でこの映画のことを話題にする者はほとんどいないし、雑誌やTVで特に紹介されているわけでもない。それでも客足が途絶えないというのは、たぶん、この作品が小さなコミュニティや、ある同志的な連帯の中で評価されていたり、作品を何度も見ているリピーターが多いからじゃないのか。


「マリア」は、ドラッグを呑み込んでアメリカに密入国するという危険な仕事に足を踏み入れることになる一人の女性を描くドラマだ。メキシコのような地続きじゃない場合、アメリカにドラッグを密輸する場合、船か飛行機しかない。大量に捌くなら船で沿岸まで乗りつけ、誰かがそれを引き取りにいくというのが最も一般的な方法で、実際、カリブからフロリダ経由でアメリカに入ってくるドラッグは、大半がこの方法をとっているらしい。


しかし、コロンビアのようにアメリカから遠く離れてしまっている国だと、よほどの組織力がない限りそういう方法はとれないし、また、既に確立しているそういうシンジケーションとのなわばり争いが起きるのは必至だろう。そういうわけで、個人個人をドラッグのキャリアに仕立て上げ、コンドームやらなんやらに詰め込み、それをキャリアに飲ませて税関を通過させるという世にも恐ろしい方法がとられる。だいたい葡萄大粒一粒大くらいの大きさに揃えたドラッグの袋を、可能な限り呑み込ませられるのだ (実際に葡萄を噛まずに呑み込むという方法で訓練する。) もちろん胃の大きさは個人差があるが、だいたい70-80個、人によっては100個以上の場合もあるという。


そういうシチュエイションを描くのだから、作品がスリルとサスペンスに富んでくるのは当然だ。「マリア」は最初、田舎で自分の居場所を見つけきれない一人の女性を描いた女性ドラマの様相を呈し、実際、最後まで話の本筋はそこにあるのだが、話がドラッグ密輸にかかわってくると、そこに手に汗握る緊張感が加わってくる。ドラッグ密輸なんて簡単に言い、ドラッグを呑み込むなんてまた簡単に言うが、実はそのキャリアだってそれこそ命がけである。大量に呑み込んだドラッグの袋が一つでも胃の中で破れれば、それはほぼ確実にショック死を意味し、しかもその可能性は常について回る。税関だってその辺は知っているから目を光らせているし、やはりばれて捕まる者もいる。そのために、一斉に何人もの人間がキャリアとして送り込まれるのだ。そのうちの何人かさえ税関を通過できれば、充分におつりが来るほど儲けが出る。


マリアは飛行機の中で催してきてトイレに立つのだが、既に腸を通り越して肛門を出てきてしまったドラッグの袋にまた歯磨き粉を塗り付け、呑み込まなければならない。誰が何個の袋を呑み込んでいるかは事前に受け取り側にも伝わっているから、個数をごまかすことはできないのだ。さらに飛行機の中で、キャリアの一人が気分がすぐれないと訴える。玉のように吹き出る汗。もしかして袋が破れたのか。しかしここで助けを呼ぶのは持ってのほかだ。とにかく税関を通過するまで我慢しなければならない。動く密室の中での絶体絶命。うわーっ、見てるこっちの方がパニック・アタックに襲われそうだ。


舞台は後半、コロンビアからニューヨークに移るのだが、そこでの主要な舞台は、コロンビア出身者のコミュニティがあるクイーンズのジャクソン・ハイツ/エルムハースト近辺である。実は、何を隠そう私が10年以上も前に初めてニューヨークに来た時、1年ほど住んでいたのがジャクソン・ハイツなのであった。ここは人種のるつぼニューヨークでも最も人種の入り乱れている町で、いない人種はないと言われているほど様々な人間がいる。ここでは白人もその他大勢同様のマイノリティの一種でしかない。スクリーンに映る世界も、うわあ懐かしい。これこれ、こういう世界でした。こういう世界でマリアや他の人間同様、地道に生活していた自分を思い出して感心してしまう。そしてマリアも10年前の私同様、新天地で新しい世界を切り拓いていくのかと思うと、滅茶苦茶感情移入してしまうのだった。


ニューヨークを舞台にする映画というのは、乱暴だが、大きく分けて2種類ある。マンハッタンを舞台としている映画と、その周りのブロンクス、クイーンズ、ブルックリン、それにスタテン・アイランドの、マンハッタンを囲むボロー (「区」と訳される) を舞台とする映画だ。そのボローを主要な舞台とすると、マンハッタンを舞台とする作品に較べ、視覚的に決定的に異なる点が生まれる。つまり、マンハッタンの摩天楼が背景として映るかどうかである。もちろんマンハッタンが主要舞台であるにしても、観客に場所をわからせるために、当然マンハッタンの摩天楼は描かれる必要があるが、基本的にそういう場合でも、遠景としての摩天楼は、作品の導入部でさらりと描かれるのが普通だ。話が始まってしまえば、摩天楼は常に身近に後ろに存在している。「スパイダーマン」「デイ・アフター・トゥモロー」を思い起こせば、そのことは一目瞭然だ。あるいは、特に最近では多くの場合、マンハッタンの空撮が入る。先週見た「フォーガットン」もそうだったし、新しいTV番組の「CSI: NY」もそうだ。


それがマンハッタン外のボローが舞台となる場合、マンハッタンの摩天楼というのは、それが舞台の一部というよりも憧憬の対象として存在する場合が多く、ほとんど常に遠景として絵葉書のように点描される。製作資金の点で空撮など論外という物理的制約もあるだろう。「マリア」では、マリアたちはニュージャージーのニューワーク空港に降り立ち、マンハッタンを通過してそのままクイーンズまで来てしまうのだ。彼女らにとってマンハッタンの摩天楼は無縁であり、遠くから眺める存在でしかない。(また、NYを舞台にしていても、「エターナル・サンシャイン」のように、意識的にそういういかにもNY的な描写をわざわざ避ける作品ももちろんある。)


マリアにとっては、ニューヨークはまだ異国であり、自分の住む町ではない。それでも、家族というしきたりに安住している、実はまったく愛情を感じていない他人と一緒に住むことよりはましだ。しかし、では、あんたのそのお腹にいる赤ん坊も、将来あんたを母として認めるかもまたわかんないかもよと思うのだが、マリアにとっては、現在の状況から抜け出すことが何よりも先決だった。いずれにしてもマリアは一歩足を踏み出してしまった。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。マリアがしたことは犯罪であり、八方塞がりで将来の展望がまるで見えない環境という点を考慮しても、重罪であるという点では変わりない。自分がアメリカに持ち込んだドラッグによって、今度はこれまでの自分よりも不幸な人を創出してしまうかもしれないという可能性は、マリアくらいの感受性のある人間なら仕事を引き受ける前に思い当たっていても不思議はない。その点でマリアの浅慮は責められてしかるべきだ。


また、本当に子供を産もうと考える女性が、そのリスクを考えることなくドラッグのキャリアになるかという作劇上の疑問点もあるが、もしかしたらマリアのような環境だとありえないことではないのかもしれない。いずれにしても当然マリアはいつかそれらの自分がしてきた行いの矛盾や間違いに気づくだろうと思うし、その時の自分の選択が間違ってなかったかを反芻して思い悩むことになるだろう。また、そうであって欲しいと思う。実際、最後の最後までマリアの表情は曇ったままで、そこには別天地での生活にかける期待のようなものはほとんど見えないままで終わる。しかしそれでも最後、自分で自分の決めた道を進もうと決心した人間の持つ潔さが垣間見える表情だけは、美しいなと思うのだった。






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