Mad Max: Fury Road


マッドマックス 怒りのデス・ロード  (2015年5月)

考えたら先週見た「ザ・ウォーター・ディヴァイナー (The Water Diviner)」もオーストラリア映画、そして「マッド・マックス」こそオーストラリアを代表する超有名映画だ。オーストラリア製映画を連続で見るなんて機会はこれが最初で最後かもしれない。


実はオリジナルの「マッド・マックス」のストーリーは、もうまるで覚えていない。覚えているのはやたらと気筒があってボンネットが震えていたクルマとカー・アクション、それに若かりし頃のメル・ギブソンばかりで、ストーリーはまるで忘却の彼方だ。いったいどういうカー・アクション、それに若かりし頃のメル・ギブソンばかりで、ストーリーはまるで忘却の彼方だ。しかも3部作のイメージが混在してしまっている。いったいどういう話だったっけ? オリジナルの話が今回まで続いているのか、あるいは今回は前3部作の焼き直しになるのかそれともまったく新しい話になっているのか、それくらいは予習していかないとまずそうだな、と思いつつも、結局慌ただしくしているうちに週末が来てしまい、予習なんてまったくする余裕のないまま劇場に行く時間になってしまった。これで話が繋がらないまま見るのは嫌だな。


‥‥と思いながら見に行って、見てる間も見終わってからも、結局オリジナルのストーリーはまったくと言っていいほど脳裏に蘇って来ず、いったいぜんたい話は繋がっていたのかいなかったのか、ほとんどわからないまま帰ってきた。ほぼ真っさらな状態のまま楽しめたわけで、同じストーリーの焼き直しでも二度楽しめてよかったと言えなくもないか。


だいたい、オリジナルにこれだけ大量に女性が出ていたという記憶がさらさらない。確かに「マッドマックス3」ではティナ・ターナーを筆頭とするアマゾネスみたいな集団はおり、今回の砂漠に住む女性ライダー集団はその延長線上という気はしないでもないが、微妙にその描き方、立ち位置が違う気がする。これはまず現代のフェミニズムが反映されているに違いない。ということは今回は焼き直しではなく、たぶんに新しい話だな、主人公のキャラクター、およびディストピア的設定だけを借りてきたんだろう。


と納得してオリジナルのストーリーを調べてみると、やはり今回とはまったく別ものであったことが知れる。マックスのだいたいのバック・グランド・ストーリーおよび時代背景の設定以外は一から作り直したようだ。いくらなんでもこれだけ印象的なシャーリーズ・セロン演じるフュリオサがオリジナルに登場していたとして、ここまですっぱり忘れているとは思えないから当然そうだろうとは思っていたが、しかし、最近記憶力に自分自身で疑問を感じることもなきにしもあらずなので、多少の不安はなくもなかったのだった。


実はこの手のアクションやヴァイオレンスものにはほとんど興味を示さないうちの女房が、なぜだか今回に限って私も見に行くという。最近劇場で映画を見てないのと、マスコミの評価がわりといいので見ようという気になったらしい。ヴァイオレンスものは苦手のはずなのに、へえと思って一緒に劇場に行って上映が始まると、最初の山場のカー・チェイスものは苦手のはずなのに、へえと思って一緒に劇場に行って上映が始まると、最初の山場のカー・チェイス/ヴァイオレンスになると、私の方に顔をそむけて、げえ、なんでこんなの見に来ちゃったんだろ、と呟いた。


あ、やっぱり、オリジナルの「マッド・マックス」も見てないらしいから、どういうのかわかってんのかなとは思っていたが、さすがにここまでグロテスクでヴァイオレントだとは思ってなかったようだ。実際私もオリジナルはほとんど忘れているのだが、それでもアクションもヴァイオレンスもオリジナルよりパワー・アップしていることはよくわかる。オリジナルすら見てないヴァイオレンス描写が苦手な者がいきなり今回の「怒りのデス・ロード」見たら、それは結構来そうだ。


30年前に「マッド・マックス」が公開された時の驚きは、何はともあれカー・アクションとヴァイオレンス、テクノロジー (クルマ) とプリミティヴなものが混在する異様とも言える世界観、そしてその舞台となったオーストラリアの赤茶けた砂漠のような大地の光景にあった。同じ光景でニコラス・ローグは「美しき冒険旅行

(Walkabout)」を撮り、ジョージ・ミラーは「マッド・マックス」を撮る。


今回主人公のマックスを演じるのはトム・ハーディで、先頃「チャイルド44 (Child 44)」で主演しているのを見たばかりでもう次の作品だ。どちらかというとあまり口数の多くない、もそっと喋るタイプの役柄を演じることの方が多いが、今回もその系統だ。とにかく切れたり怒らせると怖いタイプの男を演じさせると、抜群にはまる。


ヒロインのフュリオサに扮するのがシャーリーズ・セロンで、こちらも、というか正直言って主人公のマックスよりこちらの方が格好いい。ハーディはとにかくほとんど喋らないし、縁の下の力持ち的な印象の方が強いのだ。「マッド・マックス」というより「マッド・フュリオサ」というのが今回の正しいタイトルだと思う。そのフュリオサが、虐げられていた女性たちを引き連れ、ジョーの支配から脱出する。さらには逃避行の途中で出会うのは、女性アマゾネスのような集団だ。これだけの女性母性に囲まれ、マックスもニコラス・ホルト扮するニュークスも霞む。


セロンはケイト・ブランシェットやアシュリー・ジャッドと並んで殴られたり戦ったりして顔を汚したり血を出すと映える女優の一人だが、例えばブランシェットが脅える顔が最も印象的なのとは異なり、セロンは殴られても前に出て立ち向かって絵になる。単純にオスカーを獲った「モンスター (Monster)」より、こちらの方がよほど格好いい。下手に殴られて同情買うのではなく、やられたらやり返してもらいたい。それが無理なくできるのはあんたくらいしかいない。










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文明の崩壊した近未来、人々は異形のジョー (ヒュー・キース-バーン) の支配下で生きていた。ジョーはガソリンと水、食糧を確保し、大型トラックによる輸送網を支配し、人々は最低限の文明を保っていた。しかし基本的にヴァイオレンスこそがすべてと言え、女性は支配され、保護される側にいた。そういうシステムの中で、フュリオサ (シャーリーズ・セロン) は数少ない男性と対等に行動する女性ドライヴァーだった。ある時、フュリオサはトラックと共にシステムからの離脱を試みる。トラックの中には身重を含めた数人の女性が隠れており、彼女らを連れて逃げるつもりだったのだ。すぐに追っ手が組織され、システムに反逆して捕縛されていたマックス (トム・ハーディ) もほとんど弾除けのようにクルマにくくりつけられて連れて行かれる。激しい撃ち合いとなり、命拾いして武器を手にしたマックスは、トラックに乗り込んでフュリオサに運転を命じるが‥‥


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