Les Miserables


レ・ミゼラブル  (2012年12月)

何度か映画化されている「レ・ミゼラブル」、今回はヴィクトル・ユーゴーの原作の映像化というよりも、その原作を元にしたミュージカルの映画化だ。「オペラ座の怪人 (The Phantom of the Opera)」がクラシック映画のリメイクではなくアンドリュウ・ロイド・ウェーバー版のミュー ジカルの映像化であったように、今回もユーゴーというよりも、アラン・ブーブリル作詞、クロード・ミッシェル・シェーンベルク作曲のミュージカル、あるいは舞台および今回のプロデュースを担当した、キャメロン・マッキントッシュの舞台の映像化と言った方がよりしっくり来る。それにしてもなぜだか近年の大掛かりなミュージカルは、パリが舞台だ。

今回はとにかく、ミュージカルとはいっても音楽後付けではなく、撮影時に俳優自身に実際に歌を歌わせ、その時の歌をそのまま使用して、臨場感、生の感情の昂ぶりをでき得る限り損なわずに画面に定着させようとしたという試みが話題を提供した。

考えると、映画という媒体、特にミュージカルにおいて、音楽を後付けしないというのは、稀だ。稀というか、そのシーンにおいて実際にその場でオーケストラが演奏しているというのでもない限り、 わざわざその場で演奏させようとは、普通は考えないだろう。俳優のセリフだけではなく、音楽、それもオーケストラを、録音ではなく、現場で演奏させるというだけでもかなりの困難が伴うだろうというのは想像に難くないのに、その上歌までその場撮りだ。まずスタジオ撮影でないとできない相談だろう。

そして今回の「レ・ミゼ」においては、 その上さらに、登場人物の多くがカメラ目線で歌う。俳優のエモーションを損なわないために歌をその場撮りしているだけでなく、そのエモーションを直接観客にぶつけることを最大の目的にしているのだ。そのため観客は、俳優が大きなスクリーンからアップになって、まるで観客席にいる自分に向かって歌いかけているような錯覚に陥ってしまう。

アン・ハサウェイやアマンダ・サイフリッドといった、ただでさえ訴えかける大きな目を持った女優がこれをやると、心臓鷲掴みという感じでどきどきする。私は男性だから女優にこれをやられるとぐっとくるが、女性なら当然男優にこれをやられるとたまらないだろう。

それだけでなく、さらに彼らは、歌いながら前方、つまりカメラ、つまり観客に向かって進んでくる。ただでさえでかいスクリーンに顔いっぱいのアップになっているものが、こっちに向かってずんずん進んでくる。オレを、私を見ろ、歌を聴けと迫る。こっちはどんどん圧倒されて椅子の中に深く深く沈んでいく。いや、確かに生のエモーションをここまで前面に押し出した作品というのはほとんど記憶にない。

 

つまり、今回の目的であるエモーションの伝達は、充分その効果を達成していると言える。このアイディアを出したのがマッキントッシュなのかそれとも演出のトム・フーパーなのかは知らないが、よくこれだけ思い切った試みを成功させた。

俳優がカメラ目線でこちらに向かって話しかける、歌いかけるという演出はそこここで散見するが、しかし最も多くこの方法を用いたのは、やはり小津安二郎だろう。ただし、一見同じ方法論に見えるこの演出は、細部ではかなり異なる。

 

小津の場合、登場人物はたいていちゃぶ台を囲むように座っており、ある人物の正面には別の人物がいる。したがって登場人物が正面 (カメラ) に向いて話しかける場合、それは正面に座っている誰かに向かって話しかけているのであって、観客に対してではない。一方でもちろん、観客が自分に向かって話しかけられているという錯覚を受けるようにも計算されている。このカメラ目線が小津演出の醍醐味の一つであることはもちろんだ。

 

ところが「レ・ミゼ」の場合、これはもう最初から堂々と、演者は観客に向かって歌いかける。さもなければ、他に回りに誰もいないところで、あるいは周りに人がいっぱいいるのにわざわざ彼らを無視して、カメラに向かって歌いかけるわけがない。つまりこれは、映画という意匠をまとった舞台であり、舞台では経験できない演者のクロース・アップという映画のメリットを盛り込みつつ、観客が一体になって話に没入し、盛り上げるという舞台の効果の両方の一挙両得を目指したのは明らかだ。あざといという気もするが、確かに効果を上げている。

 

こないだABCの「グッド・モーニング・アメリカ (Good Morning America)」を見ていたら、番組内のヴァイラル・ ヴィデオを紹介するコーナーで、「レ・ミゼ」を見たばかりで帰る車内で号泣する母を息子が撮ったヴィデオを紹介していた。あれは極端とはいえ、心を大きく揺さぶられたであろうというのは納得できる。見た人が泣く泣くと言っていたわけがやっとわかった。かくいう私も、結構乗せられてうるうるしていたのだっ た。

 

出演者は皆上手だが、意見が割れている、というか、否定的な意見が上回るのが、ラッセル・クロウが演じているジャヴェールだ。基本的に出演者の中で彼だけ、正式な発声や歌い方を教わっていない。とはいえ彼はバンドを組んで歌っており、歌えないというわけじゃない。しかしその他大勢の舞台のヴェテランや歌の基礎ができている者の中に入ると、彼のパートだけ浮いて見えるのは確かだ。

 

しかしそれが話をぶち壊しにするほど受け入れ難いものなら、作り手だって彼を起用しなかったろう。それでもクロウなのは、下手でも実直という歌い方が、キャラクターとマッチして効果を上げているからに他ならない。歌よりも人柄なのだ。実際私も、特には気にならない、というか、私はここでのクロウは推す。下手な部分が逆に効果を上げてすらいると思う。あの衒いのない実直さがあってこその最後の絶望なのだ。

 

ふと1998年のピレ・アウグスト - リーアム・ニーソン版の「レ・ミゼ」を思い出す。あれでジャヴェールを演じていたのはジョフリー・ラッシュで、これまた愚直なまでの勤勉さでジャヴェールに血肉を与えていた。考えると、一見まったく何の共通点もなさそうに見えるラッシュとクロウだが、そういう愚直さ、一方でまったく逆の老獪さを出すのが共にうまい。考えたら二人ともオーストラリア人だし。もしかしたらラッシュも歌も歌えたりしたかな、彼が歌うジャヴェールを演じると、それも鬼気迫って面白そうだな、などと思うのだった。

 








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19世紀フランス。ジャン・ヴァルジャン (ヒュー・ジャックマン) は一個のパンを盗んだかどで刑務所に入れられ、特に刑吏のジャヴェール (ラッセル・クロウ) に目をつけられ、辛酸を嘗める。やっとのことで保釈になっても、前科のあるヴァルジャンの働き口はなく、世話になった教会から金目の物を盗み出してまたも捕まってしまう。しかし神父の温情で罪を免れたヴァルジャンは、官憲の監視の目を振り切って新しいアイデンティティを手に入れ、人生をやり直す決意をする。 数年後ヴァルジャンは、地方都市の市長であり、服飾工場を経営するビジネスマンとしても一角の人物になっていた。しかし今は警察の要職にあるジャヴェール は、ヴァルジャンのことを忘れてはいなかった。一方、ヴァルジャンが経営する工場をクビになったファンテーヌ (アン・ハサウェイ) は、売春婦に身を持ち崩し、里子に出している娘のコゼットの養育費をなんとかやりくりしていたが、貧窮のために身体を壊して瀕死の状態になり、ヴァルジャンにコゼットのことを頼んで死んでいく‥‥


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