La Boheme

ラ・ボエーム
(2002年12月20日)    ブロードウェイ・シアター

バズ・ラーマンは私のひいきの映画監督の一人である。彼がオーストラリアで演出したデビュー作の「ダンシング・ヒーロー (Strictly Ballroom)」を見て以来、こいつはいまにハリウッドに出てくると思い、秘かに彼がブレイクするのを楽しみにしていた。そしたらいまにブレイクするどころか、彼はレオナルド・ディカプリオとクレア・デインズを起用した次作の「ロミオ+ジュリエット」で、あまりにも簡単にブレイクしてしまった。その次の「ムーラン・ルージュ」にいたっては世界中のヒットとなってオスカーにもノミネートされたから、もう私がひいきにする必要もなくなってしまった。もうちょっと下積みしてくれた方が、ファン心理としては応援のし甲斐もあるのだが。

そのラーマンがプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を演出する。しかもメトロポリタン・オペラを使うような単なるオペラではない。歌はそのままイタリア語の歌詞による原曲そのままで、訳が舞台上に現れるという方式なのだが、原曲に忠実なのはここまで。あとはブロードウェイ・オペラとして、舞台を1950年代のパリに設定、斬新なステージングによるオペラを演出するという。別にラーマンがオペラを演出するのはこれが初めてではなく、これまでにもシドニー・オペラで「ラ・ボエーム」を演出したことがあるそうだが、それはオリジナルそのままのオペラでだったそうだ。要するに今回のブロードウェイ・オペラというアイディアは、既にその頃から下地があったということだろう。

いずれにしても、あの「ムーラン・ルージュ」の世界とオペラを合体させ、ブロードウェイで生の舞台として我々に見せてくれるというアイディアにはそそられるものがある。この話を聞いた瞬間から、私は既に見に行くことを決めていた。映画はともかく、これまで生のオペラを見たことなどなく、舞台やミュージカルは行ってもせいぜい年に1、2回くらい、それもタダ券があるからとか、ニューヨーク観光に来た者の相伴で渋々重い腰を上げるくらいの理由でしか見に行かないのだが、今回ばかりは今か今かと心待ちにしていた。

演出に当たり、ラーマンがイタリア語の歌詞が何かネックになっていないかということをちらとも気にしなかったことは、「ロミオ+ジュリエット」で、シェイクスピアが書いたそのままのセリフを主演のディカプリオとデインズの二人にそのまま喋らせたことでも知れる。「ロミオ+ジュリエット」も「ラ・ボエーム」も、クラシックの中のクラシックである。たとえオリジナルを読んだことがなくても、舞台を見たことがなくても、ほとんどすべての人はその内容は既に知っている。観客は既にストーリーを知っていて見に来ているのだ。

だからはっきり言って、出演者が何を言っているか、なんと歌っているかを観客が100%理解する必要はさらさらない。最後には恋人のどちらか、あるいは両方とも死んでしまう、悲恋に終わるラヴ・ストーリーであるということだけを知っていればいいのだ。あとはスクリーンで、あるいは舞台上で視覚的に細かな内容を補えばいい。そしてその視覚的な効果の利用法を熟知し、観客に提供することができるのがラーマンなのだ。

特に「ラ・ボエーム」でその視覚効果を最大限にうまく活用しているのが、第1幕の終わり、登場人物がメインのセットから降り、段々舞台が暗くなる中を、「La Mour」と書かれた大きなネオンサインだけが目映いばかりに紅く輝き、それが段々と暗くなって場内が完全に暗くなるところと、そして、第2幕のすべてである。第1幕のネオンサインは、あれはラーマンがそもそもの「ダンシング・ヒーロー」で巨大なコカ・コーラのネオンサインの前で主人公二人を配してみせた、あれとまったく同じことをここでもやっている。

そして実は第2幕は、それなりに話の展開に必要な部分もないわけではないが、基本的にクリスマス・イヴにパリの左岸で浮かれ騒ぐ若者たちを描写するだけの、話の本質とはあまり関係のない部分である。こういう乱痴気騒ぎに興じる登場人物という設定は、二人の主人公の感情の高まりを描く上で、確かに話に貢献しているとは思うし、舞台をわざわざイタリアからパリに持ってきたからには、パリの左岸のカフェにたむろする人間を描く必要があると思ったのももっともだ。が、それでも別にここまで舞台を大袈裟にする必要もなかったろう。しかし、それでも第2幕は、そういうストーリー上の些細な展開などをまったく気にさせない、豪華絢爛でゴージャスな舞台装置、かつその演出が観客の度肝を抜いて圧倒するのだ。

まるで「ムーラン・ルージュ」の世界がそのまま舞台に移行したような圧倒的なスケールで押しまくるこの第2幕こそが、「ラ・ボエーム」最大の見せ場である。本当ならお気に入りのジョン・レグイザモを起用したかったに違いない小人から、いいようにあしらわれる英国紳士など、「ムーラン・ルージュ」そのままの人物がここにもいるだけでなく、主要登場人物以外にも、パレード、子供たち、娼婦、カフェの客、通行人、警官、ジプシー、ウエイター等が何十人も舞台上で入り乱れ、観客席にまで迫り出したネオン・サインも含め、圧倒的な規模で見る者を圧倒する。

実際、第2幕では同時多発的に舞台のそこここで異なる人物による異なったアクションが起こっているので、いったい何が起こっているのかを全部見ることは、到底不可能な相談だ。こっちを見ていると、舞台の別のところを見ている観客から笑いが漏れ、思わずどこで面白いことが起こっているのかと慌てて舞台の他のシーンを探すと、今度は別のところで誰かが観客の喝采を受けている。さらには「マイ・フェア・レディ」でジョージ・キューカーが見せたストップ・モーションのような出演者の動きも採り入れるといった按配で、何が何だかよくわからない。そして、実際に祝祭とはそういうもののはずで、それを繰り返し何度も反復できる舞台として再現して見せるラーマンのヴィジョンには、まったく脱帽である。

惜しむらくはその第2幕のできが圧倒的で、続く第3幕、第4幕にそのレヴェルの演出を期待していると、それはごくストレート・フォワードな演出で、何の衒いも派手さもないためちょっと肩透かしを食ってしまうことだが、これは第2幕と対比させる上できっと最初から考えられた上での演出であろうから、文句を言っても始まるまい。とはいえ、あの第2幕を見てしまうと、きっとクライマックスで何かもう一つ見せ場があるに違いないと期待してしまうのはしょうがない。それでも、全体として多いに楽しませてくれた。やっぱりラーマンは並みの演出家ではない。

とまあ、私のような舞台の素人は大満足して帰途についたのだが、この舞台、オペラの玄人からは結構煙たがられているらしい。特に反感を買っているのが、登場人物のそれぞれが小型のマイクを装着して歌うことで、これが生の雰囲気を台無しにするとえらく不評だ。同様に、シンセサイザーも利用した音楽のアレンジも、これでは本当のプッチーニではないと不平をかこっている。なるほど、筋金入りのオペラ・ファンにとっては、そういうのは許されることではないのだろう。しかし、これをオペラと思わず、ブロードウェイ・ミュージカルであると思えばどうか。この舞台によって、新しいオペラ・ファンも増えるかもしれない。大きな視点から見れば、オペラにとってもブロードウェイにとっても歓迎すべき舞台だと思うのだが。


追記 (2003年1月):

ラーマンの「ラ・ボエーム」が面白かったので至るところでその話をしていたら、趣味で声楽をやっている女房の同僚が、では、これは、と言って、82年にメトロポリタン・オペラがやった「ラ・ボエーム」のヴィデオ・テープを貸してくれた。ミミを演じるのがテレサ・ストラタス、ロドルフォがホゼ・カレラスで、演出はやはり映画監督としても著名なフランコ・ゼフィレッリの、わりとクラシックとして定評のある舞台の記録である。TVで見てるのに (あるいはTVで見てるからか)、確かに歌い手のレヴェルはこちらの方が断然上だというのは納得せざるを得なかった。

オペラ・ファンが演者の一人一人にマイクをつけるのを嫌うのはわかるなあ。ゼフィレッリの演出もポイントは押さえているという感じがしたし。むしろ第3幕、第4幕はこちらの方がよかった。出演者はどう見てもこっちに軍配が上がるので (しかしストラタスはトウが立ち始めているし、レナータ・スコット演じるムゼッタは老け過ぎではある)、全体として見るとこちらの方ができはいいと言えるかもしれない。しかしラーマンの「ラ・ボエーム」は、一つのお祭りとして見るとやはり捨て難い。あの第2幕はやはりもう一度見たい。




 
 
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