Kinsey   愛についてのキンゼイ・レポート  (2004年12月)

厳格な宣教師の親の元で育てられたアルフレッド・キンゼイ (リーアム・ニーソン) は、幼い頃は生物に興味を持ち、長じては蜂の生態の研究で注目され、インディアナ大学で教鞭をとるようになる。そこでキンゼイは生涯の伴侶となるクララ (ローラ・リニー) と出会う。二人は結婚するが、実は初夜の日までキンゼイは童貞だった。キンゼイのペニスは標準よりかなり大きいのにベッドでのテクニックも何もないキンゼイは、うまく性交が営めない。そういう自分の体験や生物学者としての立場からセックスというものに興味を持ち始めたキンゼイは、科学的な方法を用いてセックスを分析することに意義を見出し始める‥‥ 


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先日発表されたゴールデン・グローブ賞にノミネートされた作品を見ると、映画ドラマ部門の主演男優部門では、ノミネートされた5人が全員実在した人物を演じる、いわゆるドキュドラマで主演してノミネートされている。「ザ・シー・インサイド」のハビエル・バルデム、「ホテル・ルワンダ」のドン・チードル、「ネバーランド」のジョニー・デップ、「ジ・エイヴィエイター」のレオナルド・ディカプリオ、そしてこの「キンゼイ」のリーアム・ニーソンだ。 


ついでに言うと、ドラマ部門とミュージカル/コメディ部門が分かれているゴールデン・グローブにおいて、ミュージカル/コメディの方でも、ノミネートされているのは「レイ」のジェイミー・フォックス、「デ-ラヴリー」のケヴィン・クライン、「ビヨンド・ザ・シー」のケヴィン・スペイシーと、5人中3人が実在の人間を演じている。どうやら今年はドキュドラマの当たり年のようなのだが、それにしてもなぜ実在の人間ばかりなのか、なぜ男ばかりなのか、存命中の男が一人もいないのはなぜか。


まあ 「レイ」のレイ・チャールズは今年鬼籍に入ったばかりで、まさかそろそろやばそうなことを見越して作品を製作したわけではないだろう。それに、対象が存命中ではなく、既に物故した者ばかりだというのはわからないではない。生きていたらまだその人物に対する評価は確定していないだろうし、これからも変わっていくだろう。とはいえ、それでもこのいきなりのドキュドラマ・ラッシュには、いったい何か理由があるのかと首を傾げてしまう。まさかいきなり最近昔の男が見直されているわけでもあるまい。


その中でも、セックス・サイエンティストとして知られるドクター、アルフレッド・キンゼイは、他の誰と較べてもその異色さではひけをとるまい。それまではアメリカといえどもほとんど公の場で語られることのなかったセックスという対象に科学的な視線を向け、分析し、一般にもわかりやすく発表し、その結果、よりセックスについて人々は混乱することになったという、人騒がせな、当時の同世代の人間に与えた影響という点ではピカ一の存在がキンゼイだ。


1948年、男性に焦点を絞って書かれた名高いキンゼイ・レポートが発表され、反響を巻き起こすと、1953年にはこのレポートの女性版が発表された。これらのレポートによると、結局人は、マスタベイションやら獣姦やら婚外交渉やら近親相姦やらホモセクシャルやら、タブーや禁止されていることに手を出す者が驚くほど多い。人は社会生活上必要な建て前上の道徳や、子孫存続に最も有効と思えるルールを代々語り継いできたわけだが、結局そんなの、あまり効果がなかった。要するに人間って、やっぱりタブーであればあるほどそれを破ることに快感を覚えるのだ。あるいはそれがタブーであるということすら気にしない者も結構多いかもしれない。いずれにしても、そういうルールや不文律は、元々は人類が滅亡しないためにも是非必要なものだったはずだが、結局それが破られてばかりでも、こうやって地球上に人類ははびこりすぎるくらい繁栄している。


だったら、もはやそれらのタブーがタブーである必要は既にもうさらさらないという気がするのだが、地球上に住む人間の全員が近親相姦に走ったりソドミーに淫したりするのは、やっぱりまずいだろうなあとも思う。だからこそ、ほとんど有名無実となったこういうタブーが、建て前の上だけでもまだ生きているんだろう。というか、建て前だけとしても、これらのタブーは一応必要なんだということを人類はほとんど無意識に感じているんじゃなかろうか。さもなければ、人類の4人に一人が堂々と破っているか気にしないタブーに意味はあるまい。つまり4人に3人が順守していれば、タブーはタブーとして立派にその意義は果たしているのだと見なしてもいいのかもしれない。


とまあ、私が映画を見ながら感じていたことは、なんとまあほとんど果てしのない研究に身を染めたのかということだ。多かれ少なかれ学究の徒というものはそういうものかもしれないが、しかし、個人的な経験から言うと、やはりセックスは科学の対象とするにはあまりにも個人差がありすぎるんじゃないかという気がする。とはいえ作品中でキンゼイが言うことには、セックスは回数や時間や性器の大きさ等、数量化できる。だからセックスは科学の対象となりうるが、数量化できない愛は調査の対象とはなりえない。つまり、セックスは科学だが愛は科学ではない。そう断言して、セックスから愛情は取り外し、科学としてのセックスだけを対象とするのだが、しかし、もちろん事はそう単純には運ばないことは、素人目にも明らかだ。


だからキンゼイの研究が糾弾の対象になったりもする。それにセックスだけをとっても、キンゼイの研究が絶対というわけではない。科学だって日々進歩するものだし、時には失敗も起こる。キンゼイ自身、最初の男性研究では方法論に間違いがあったことを認めている。しかしキンゼイはそのことを認め、次の研究ではよりよいものを目指す。既にこれらの研究が発表された時はキンゼイは健康状態が思わしくなくなりつつあったが、それでも次のステージに進もうとする。これってどう見てもドン・キホーテだよなあ。


この種の人の半生を描くドキュドラマでは、実は最も見応えがあるのは、若ければ十代から老年期までを演じることになる俳優の演技や、メイキャップ技術にあったりする。今回もキンゼイに扮するニーソン、その連れ合いのクララに扮するローラ・リニーのメイクは、二人の演技はもちろんとして、その技術に感心してしまう。しかし、それでもごまかしようのないのが身長だ。体重だけなら50パウンド増やしたとか減らしたとかで何かと話題になったりもするが、身長だけはどうしてもごまかしようがない。身長190センチもあったという大男のキンゼイに扮するには、俳優の方も最初から大男である必要があるわけだが、その点もクリアして、さらに雰囲気も似るところのあるニーソンのキンゼイ役は、この上ないはまり役と言えよう。 


そしてそのキンゼイのインスピレイションの源として、影になり日向になりキンゼイを支えるクララに扮するリニーも、いつもながらうまい。笑う時のえくぼがチャーム・ポイントでもあるんだが、それがなかったらもっと広い役柄が演じられそうな気がするんだがと思うのは、ちょっと贅沢すぎる悩みか。そして最近、バイ・プレイヤーとして色々なところで活躍しているピーター・サースガードが、ここでもキンゼイの助手役として非常にいい味を出している。ユアン・マグレガーを気持ち線を細くしたような感じで、そういえばサースガードは「キンゼイ」でフル・ヌードになってペニスを見せていたが、マグレガーも今年、「ヤング・アダム」でペニスを見せていた。やっぱり似たようなことをしている。


ところで、半世紀にわたってずっと「キンゼイ・レポート」として流通しているこの固有名詞のことを考えると、この映画の邦題はほぼ「キンゼイ」で決まりだと思うが、映画を見ればわかるが、作品の中では誰も「キンゼイ」と発音してはいない。全員「キンジー」(最も正確に表記すると「キンズィー」だろうが) と言っている。ま、中間くらいの発音をしてないこともなかろうが、それでも日本人の耳には100%「キンジー」としか聞こえないだろう。それとも50年前は、結構みんなキンゼイと発音していたのか。あるいはゆっくりと発音するとキンゼイに近くなるとか。あり得ない話ではないと思うが、しかし、なんだかなあ。






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