K-19: The Widowmaker

K-19: ザ・ウィドウメイカー  (2002年7月)

本当はこの映画を見に行くかどうか迷ったのだ。昨年の同時多発テロから人々は一応表面上は回復したように見えるけれども、未だに色濃くその影響は残っている。私の女房もまだ影響を引きずっている者の一人で、事件以来、たとえばサブウェイに乗ってて一時的にトンネルの中で車両が止まったりすると、不安になって心臓がばくばくするようになった (ニューヨークのサブウェイというのが、これがまた何のアナウンスもなしによく止まるのだ)。精神科にかかって、いわゆるプローザックとか呼ばれる抗鬱系の精神安定剤をもらったりしていたのだが、そういう状態で、海の下で人が鉄の塊の中に閉じ込められるという話を見に行ってもいいものか。私はもう一つの候補作として、ジョン・セイルズの「サンシャイン・ステイト (Sunshine State)」なんてどうかと提案していたのだが、その女房が「K-19」を見に行くという。自分で自分にショック療法を試みているのか。しかし本人がそっちの方を見たいと言っているのだから、まあ大丈夫なんだろう。


1961年、ソヴィエトとアメリカは共に海の覇権をめぐってつば迫り合いを続けていた。ソヴィエトが総力を上げて建造した新型原子力潜水艦K-19は、しかしその完成までに事故で何人もの死亡者が出るなど、人々から未亡人製造マシン (ウィドウメイカー) と呼ばれ、不吉がられていた。艦長のミハイル (リーアム・ニーソン) は、そういう限られた時間のプレッシャーの中で全力を尽くしていたが、完成直前の核ミサイル発射テストにまたもや失敗し、処女航海直前になって、ミハイルの代わりに新艦長のアレクセイ・ヴォストリコフ (ハリソン・フォード) が任命される。乗組員の反感の中、K-19は出航し、ほとんど人権を無視したヴォストリコフの指揮下、ミサイル発射実験にも成功する。しかし、ちょうどその時、艦の奥深くで原子力エンジンの内部で問題が発生しつつあった‥‥


潜水艦ものの映画は、よほど演出を間違わない限り、作品のある程度の成功は約束されている。どこにも逃げ道のない極限状況を嘘臭くなく設定できるからで、よほど下手くそな演出家でもない限り、そこそこの緊張感やスリル、サスペンスを醸成するのは、それほど難しいことではないだろう。実際、ハリウッドもそれを知っているから、わりと定期的に潜水艦ものが現れる。一昨年にも「U-571」なんてのがあった。しかも今回は、最近のクルスクの事故もあり、おかげで結構映画に描かれる事件が身近に感じるということもある。クルスクは乗組員ごと海底に沈んでいった。さて、K-19はどうなるのか。


映画が始まってまず最初に、プロダクション・カンパニーのロゴにナショナル・ジオグラフィックのロゴを発見してびっくりする。ナショナル・ジオグラフィック! 「タイム」等と並んで世界的雑誌の一つである「ナショナル・ジオグラフィック」が映画製作に手を出した。それも冷戦を舞台とした潜水艦ものである。「ナショナル・ジオグラフィック」は、雑誌のPBS (公共放送のことだ) とも言われる、エンタテインメント系というよりは学術系に近いわりと硬めの雑誌である。今でもアメリカではこの雑誌を購読しているインテリ層は多い。それがハリウッドの娯楽大作を製作したという、この印象の落差にまずびっくりした。この映画は、ソヴィエト崩壊まで西側に知られることがなかったという実話を基にしている。多分、「ナショナル・ジオグラフィック」がその話を入手し、これは映画になると踏んだんではなかろうか。


話の舞台は冷戦時代ということもあり、潜水艦同士のドンパチや、駆逐艦から落とされる爆雷の恐怖に息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つ、というようなシチュエイションが用意されているわけではない。今回、それらの役を担うのは、原潜内の権力争いや人間模様、および原子力エンジンそのものであり、それが故障したため、技師らは放射能を浴びる恐怖に怯えながら、10分交替でエンジン内部に修理に向かう。


放射能って、私は門外漢だから何がどう怖いってよくわからないのだが、だから一層怖いっていうのはある。チェルノブイリや「もんじゅ」じゃないけれども、原子力が完全なものじゃないというのは今じゃ常識だし、それでその地方に人が住めなくなったなんていうニュースを聞くと、理屈がよくわからないだけによけい怖い。しかし今回その原子力エンジンの修理をする技師たちは、基本的にその怖さを理解している。なぜ放射能を浴びたらいけないのか、放射能を浴び続けるとどうなるのかを理解している者たちが感じる怖さというのは、我々が感じる怖さとはまた一種別物だろう。いったいどちらの方がより原子力を怖れているのか。通常、恐怖というのはよくわからない、理解を超えたものに対する本能的な心の対応だから、理屈上、恐怖を生み出す対象の仕組みを知っていると、恐怖という感情は生まれにくい。それなのに技師たちは恐れおののく。つまり、原子力ってやっぱり恐ろしいものなのだ。だって、彼ら、あんなに怖がってるじゃないか。


このあたり、結構引きずり込まれて見ていたんだが、私の隣りで見ていた女房は、結構、なんてもんじゃなかったようで、心臓が口から飛びだしそうになるくらい緊張したと言っていた。緊張のあまり気分が悪くなったそうで、やっぱりこんな映画見るんじゃなかったと後悔したそうだ。だから言ったじゃないか。


演出のキャスリン・ビグロウは、女性監督にしては男勝りの骨太の演出をするところに特長があり、それは「K-19」でも変わらないのだが、一方で、通常の女性監督が得意とするような繊細さに欠ける。これはもう一貫してそうで、「ブルースチール」や「ハートブルー」、「ストレンジ・デイズ」と、見事なアクション・シーンの演出を見せるくせに、どれも皆、少しずつ冗漫な感がするのは否めない。特に「ストレンジ・デイズ」は、私はビグロウのこれまでで最もよかった作品と思っているのだが、もうちょっとで傑作になった感じがするのに、あとちょっと、というところで散漫な印象を残したまま終わってしまう。


こないだTVを見ていたらたまたま「ハートブルー」がかかっており、ビール片手にちびちびと飲みながらなんとなく見ていた。そしたら、これが滅法面白いのである。劇場で見た時よりもTVで見た時の方が面白かった。小さな画面のTVではアクション・シーンの醍醐味は大分減殺されているはずなのに、それでもアルコールの入った頭でTVで見ている時の方が面白く感じるというのは、とりもなおさず細部に目が行ってなく、大まかなアクションだけを見て面白いと感じているわけだ。つまり、ビグロウが演出する作品というのはそういう作品なのであって、B級ではないが、A級にもなりきれない、B級半という印象が抜けきれない。


これは実は、「A-19」もそうなのである。スピーディで力強い演出が随所に見られるのに、終わってしまうと、なんか、どこかもの足りないような、まだ作りようでは面白くなったんじゃないかという印象が強く残る。また傑作になりそこねた作品を作ってしまったような感じが強くするのだ。今回は特に最後の後日談なんて、まったく必要なかった。あれは小説なんかで読ませると余韻を残すエピソードになるのだろうが、すべてを言い切ってしまった映画では不要である。あの5分は完全に切って捨ててしまった方が逆に強い印象を残したまま終われただろう。そのまま乗組員を非運のヒーローとしたまま終わってしまえばいいものを、ヘンに30年後なんて話を付け加えてしまったために、死んだ乗組員がヒーローだった、ヒーローだったと言えば言うほど、よけいただの犬死ににしか見えなくなった。こういう結末をどうしても付け足してしまうのが、なんというか、いかにも「ナショナル・ジオグラフィック」らしいという感じもしないではないが。


しかし、それでも、いまだに男性が圧倒的に優位な立場にいる映画監督という職業において、その中で男性と伍してアクション映画を撮り続けるビグロウは、掛け値なしにえらいと思う。今、アクション映画を撮ることのできる女性は、世界中を探してもビグロウとミミ・レダーしかいない。アクション・シーンだけに限れば、ビグロウの方が一歩抜きん出ているのは確実だろう。出演者では、主演のフォードとニーソンよりも、実は新米のエンジン技師ヴァディムを演じたピーター・サースガードの方が印象に残った。ある意味では彼が主人公のようなものだろう。







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