Inside Llewyn Davis


インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌  (2014年1月)

コーエン兄弟の新作は1960年代のニューヨークのフォーク・ミュージック・シーンを舞台とするコメディだ。まあ前作が「トゥルー・グリット (Tru Grit)」だから、今回もまたシリアス・ドラマが来ることはないだろうということはわかってはいたが、しかし60年代の音楽コメディと来たか。むろんコーエン兄弟の音楽の使い方のセンスは定評のあるところであり、それはそれで期待してしまう。


実はこの時代のアメリカのフォーク・ソングというと、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ジョーン・バエズといった大御所以外ほとんど知らない。調べてみると、ディランが一躍スターダムにのし上がった「風に吹かれて (Blowin' in the Wind)」が発表されたのは1963年のことだ。反戦運動が活発になり、時代がうねり始める。映画の最後には、そのディランが出てきてこれから大物になるという予兆を含ませて終わる。つまり映画の主人公ルーウィン・デイヴィスが活動していたのは、そういう、時代が動いていく前夜という趣のある時代だ。


ルーウィンはフォーク・シンガーで、アルバム「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を出したばかりだが、売れ行きは芳しくない。金のないルーウィンはほとんどホームレス状態で、友人知人の家を渡り歩いて日々を暮らしていた。ちょっとした過ちで友人のガールフレンドと寝てしまい、彼女は妊娠してしまうがどちらの子かわからない。泊めてもらった家ではルーウィンの歌に合わせて住人が一緒に歌い出すと、オレは商売で歌っているんだと一宿一飯の恩義も忘れて一喝してしまう。


等々、売れないミュージシャンほど使えないものはない。正直言って音楽やっている時以外は人間じゃない。私が学生をやっていたバブル全盛期の80年代初期の東京ですらそうだった。音楽以外はなにもできないのに、勝手に友人知人の家に上がり込んで食い物を物色し、そのくせして稼いだ金はほとんどがセックス、ドラッグ、アルコールに消える。本当に才能がある一部の者を除き、音楽だけで食っていけるとお気楽に考えているのは、だいたいが人間失格者と相場が決まっていた。金もないくせにちゃんとどこかからか葉っぱだけは調達してきていた。ウッドストックになだれ込む60年代ニューヨークは、魑魅魍魎が跋扈して、ドラッグ、アルコール、フリー・セックスが氾濫し、さらにそうだったろうというのは想像に難くない。


さすがコーエン兄弟らしく随所にセンスのある演出映像音楽の使い方を見せる。出ずっぱりでしかも歌もうまい主演のオスカー・アイザック、恋人の友人とつい寝てしまおうがやっぱり可愛いものは可愛いキャリー・マリガン (歌もうまい)、本職だから歌がうまいのは当然だがそれでもやっぱりうまいジャスティン・ティンバーレイク、常連ジョン・グッドマン、ビート詩人が似合っているギャレット・ヘドランド、ヴェテランもヴェテランのF. マーレイ・エイブラハム等、出演陣も見事なものだ。しかし実は今回正直に言うと最も印象に残ったのは、ちょっと馴染みの薄い50-60年代のアメリカのフォーク・ソングではなく、演技しているネコだったりする。私んちもネコを飼っているのだ。


ネコは飼い主をたぶん召し使いくらいにしか思ってないのはその挙動の節々から明らかで、うちのネコは同じキャット・フードが続いたり、ちょっと気に入らないのだったりすると、すぐ自分のトイレではなく、外にウンチしてアピールする。私んちはそれをネコテロと呼んで恐れているが、どんなに同じものは連続で上げないよう気をつけていても、おネコ様の機嫌次第ではやられる。躾けないとと思って叱ると今度は心の病気になって、部屋の隅に籠もって何も食べないで何日もじっとしているので、躾けるのは諦めた。つまりネコは天上天下唯我独尊であって、こちらの言うことなんて聞いてくれない。


それが「ルーウィン・デイヴィス」では、明らかにネコが演技している。これはすごい。コーエン兄弟の演出力のおかげかそれとも単純にこの役に抜擢されたネコの実力かあるいはそのネコの飼い主の指導の賜物か、それとも単なる偶然か。ちょっとした逡巡やびっこ引く演技等、これ、本当にそうするよう言いくるめたのか。ネコに演技をつけることができないのは、「アメリカの夜 (Day for Night (La nuit américaine))」でフランソワ・トリュフォーが既に証明していたはずだ。それともあれは演技をしないネコという演技をしていた演技のできるネコだったのか。


私は深夜、ビールを飲みながらカウチに横になってTVを見ていることが多いが、その時だんだん襲ってくる睡魔に負けて、ダメだここで寝ちゃ、ベッドに行かないと、と思いながらもカウチの上で寝てしまうことを無上の喜びとしている。ルーウィンはそれしかないからカウチで寝ざるを得ないが、あったかいベッドがあって、その上でいつでも寝れるのに、寝ちゃダメだ、と思いながら寝てしまうこのちょっとした罪悪感が癖になって止められない。女房も諦めて、お節介は焼かずに寝かしといてくれる。


しかしもちろん、カウチの上だ。寝心地はお世辞にもいいとは言えず、夜中もしくは明け方、関節のどこかが軋むか寒いか、尿意を催すかなどで必ず目が覚める。最近はそれが明け方であることが多い。ところで私の住んでいるところにはわりと地域ネコがおり、よくその辺を徘徊している。うちらも時々餌を上げていたりするが、こないだ、明け方に目を覚ました時何気にカーテンを開けて外を覗いてみたら、ネコたちに餌を上げている女性がいた。


道を挟んだ2階から見ている上、真冬のニューヨークの明け方で気温は摂氏-10度以下、その人物はダウン・コートを着込んでフードを被っているため顔がまったく見えず、年齢人種などまったくわからない。しかし最近の降り積もった雪と十六夜月夜で、空はまだ明けていないが外は結構明るく、その人物も背格好や歩き方から女性だということだけはわかる。私たち以外にもネコに餌を上げている者がいるのは、時々残りかすや皿があるのでわかっていたが、少なくともこの女性が最も世話を焼いているのは確かなようだ。


というのも、翌日ほぼ同じように明け方目が覚め、もしやと思ってカーテンを開けたら、その女性がまたちょうど歩道を歩いてネコに餌を上げに行くところだったからだ。ネコたちもこの女性がご飯を持ってきてくれることを知っているから時間前から歩道に座って待ち構えていて、女性の姿が見えた途端、5匹のネコが一斉に後をついて行く。まるでハーメルンの笛吹きみたいだ。女性はネコたちに餌を与えると、たぶん早番かなんかでこれから出勤なんだろう、バス通りに向かって歩いて行く。ネコたちはご飯をがっつき始めるが、名残惜しそうに女性の後をしばらく追いかけるやつもいる。


それを見て思い出したのだが、昨秋、近くを歩いている時、ネコを散歩させている男を見かけたことがある。本当に散歩させていたのだ。しかも綱も首輪もなく、男が歩いているそばをネコはよそ見しながらついて行っていた。あまりよそ見が過ぎるようだと男は何かしら声をかけ、そうするとネコはまた男の周りを近寄ったり離れたりしながらついて行く。ネコに散歩させることができるのか。しかも綱なしで。もしかするとこういう者たちのようにネコから信頼を勝ち得ていたら、ネコに演技させることも可能かもしれない。


私はそうやって明け方近くにいったん目覚めた後、それからもうちょっとだけ寝直すかと、今度はベッドの布団にもぐり込む。目覚ましが鳴るまであとしばらくの間、ちょっと眠ってしまう時もあるし、眠れずにそのままずっと横になったまま起きている時もある。女房と私とでは私の方が体温が高いので、私が羽布団にもぐり込むと、うちのネコは布団の上から私に身体をぴったりとくっつけて暖をとりながら寝る。くっついている部分だけやたらと熱くなってこちらは寝苦しい。お前に演技つけようとは思わないよ。











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1961年ニューヨーク。フォーク・シンガーのルーウィン・デイヴィス (オスカー・アイザック) は時たまのステージをこなしながらなんとか糊口を凌ぐ、というよりも、金がないのでほとんどホームレス同然で、ギターを担ぎながら知人の家を転々として泊めさせてもらう日暮らしの生活だった。ある夜、ステージの後に客が来ていると外に呼び出されたルーウィンはぼこぼこにされ、翌朝気がついた時は、知人で大学教授のゴーフェインの部屋に寝かされていた。既に誰もいなかったため、書き置きを残して部屋を出ようとした瞬間、するりとドアの隙間から飼いネコが外に出てしまい、慌てたルーウィンはネコもろとも部屋の外に締め出されてしまう。しょうがなくルーウィンはネコを抱いてヴィレッジの知人の音楽をやっているカップルのジム (ジャスティン・ティンバーレイク) とジーン (キャリー・マリガン) のところに転がり込む。そこでジーンはルーウィンに妊娠を告げ、ジムの子かルーウィンの子かわからないから中絶の費用を出せと迫る。しかしルーウィンに金はなく、タバコを吸おうと明けた窓からまたネコは逃げ出してしまう‥‥


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