I'm Not Scared (Io non ho Paura)   ぼくは怖くない  (2004年5月)

1978年、イタリアの小さな村に住むミケーレは友だちと一緒に遠征した村の離れで、うち捨てられた廃屋を発見する。帰りがけ、妹のメガネをなくしたことに気づいたミケーレは一人で廃屋に戻り、裏庭に掘られた暗渠に、人の足を発見する。それから何度も一人で暗渠を見に来たミケーレは、それが生きている人間で、しかも自分と似たような年頃の少年であることを知る。しかし、少年は足を鎖で繋がれており、満足に食事もしていないようだった。少年はなぜ、そんなところに閉じ込められているのか‥‥


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こないだ、やっとのことでこれまでは積ん読となっていた宮部みゆきの「模倣犯」を読んだ。宮部のことだから面白いんだろうなとは思っていても、あの厚さ、やはりちょっと決心がいる。で、当然面白かったわけだが、その中で話の重要な舞台となる、建設途中でうち捨てられた廃虚がある。「ぼくは怖くない」で私が思い出したのが、その挿話だった。


いつの頃からか廃虚マニアという輩が出没し始めたことを最近耳にしたが、別にそういうのが小さなブームとして取り沙汰されるようになるまでもなく、子供というものは昔から廃虚に心惹かれていた。 現在ではそれほどでもないだろうが、私がガキの頃くらいまでは、誰も住んでない、抜け殻となった住宅だとか、あるいは幽霊屋敷と噂されるような廃虚まがいの建物が、近くに必ず一つや二つはあった。そういうとこに忍び込んで肝試しをしたことのないガキなんていないだろう。そこは妄想が膨らむ場所であり、ちょっとした影や物音がいかにもそれらしいものに思え、かくして幽霊屋敷は幽霊屋敷としての面目を保ち、ガキどもは目配せをしながら、また来ようなと囁きあうのであった。


「ぼくは怖くない」はそういう時代を思い起こさせる。作品の時代が1978年と70年代に設定されているのも、さすがに時代が進んだ今では、そのような廃虚はすぐ身近にあるものではなくなってしまったからだろう。廃虚や危険な場所は世界中から少なくなり、少年たちが肝試しをしたり、冒険する機会は減った。


冒険があれば、当然友情もある。たった一人で危険も顧みずに、誰かが閉じ込められている穴蔵に勇気を奮って立ち入っていった代償としてミケーレが得るものが、自分と同年代の少年との新しい友情であるというのは、さもありなんと思われる。しかしその少年フィリポは、なぜ本来なら誰も近寄ることもない廃屋の地下に人知れず閉じ込められなければならなかったのか。自分の家に客として滞在している得体のしれない両親の知人はいったい何者で、なんのために滞在しているのか。そして愛するパパとママも、もしかしたらフィリポと関わり合いがあるかもしれないと知ったミケーレは、いったいどうすればいいのか‥‥


子供には、大人の知らない子供だけの世界がある。ミケーレは、子供にとっては、たぶん自分の世界を大きく転換する事件に直面するのだが、それを大人に喋ることはしない。唯一、親しい友だちにミニカーとの交換条件で秘密をもらすだけなのだが、それを除いて、終始閉じ込められた少年フィリポのことは誰にも喋らないで黙っている。


しかし、たとえどんな理由であるにせよ、いったん口にしたことは外部に漏れる運命にある。ミケーレが友だちに漏らした秘密は、結局大人の知るところとなり、ミケーレとフィリポとの関係にも大きな転換が訪れる。子供の時の秘密が、秘密としていつまでも誰にも知られないでいることはあまりない。そこで子供たちは秘密を維持していくことの難しさや、秘密を漏らしてしまったことから来る友情のひび割れなどを通して大人になっていくのだ。


ミケーレはどっちかというと貧しい家庭の生まれだが、どこか野性味のある顔立ちをしており、たぶん大きくなったらハンサムになるだろうと思われる。そのミケーレと、上流階級出身の、端正な、整った顔立ちをしているフィリポのペアは、好対照を成しており、こういう場合の定石とも言えるキャスティングだが、見飽きない。だからこその定石なのだが。


「ぼくは怖くない」は、後半、フィリポ監禁に関わる人間が誰だかわからないために逡巡するミケーレが、誰も信用できなくて、どうすればいいのか進退極まっていく様を描く。秘密を打ち明けた友だちから秘密は漏れてしまったのだし、唯一事件にはかかわっていないと断言できる妹は、幼すぎて役には立たない。むしろ自分が妹を守ってやらなければならないのだ。結局自分が決心し、自分が行動を起こさなければならない。それがどういう結果になろうとも。


たぶん、そこで結果がいい方に転ぶか悪い方に転ぶかの境目は、薄い一本の線で、人々の行動という材料のほんの些細な配分の差で、結果はまるで異なったものになる。願わくは、その時間違った選択をしようとも、それが糧となって、将来笑って思い出せるようになればいいと思うのだが、時にはそれが不可能なくらい大きな事件というのにも子供の時に出会ってしまうこともある。そうやってみんな大人になっていくんだよと言えないこともあるシチュエイションというのは、やはり幾ばくかのやりきれなさを伴う。






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