How Is Your Fish Today? (今天的鱼怎么样?)

放送局: PBS

プレミア放送日: 2/2/2008 (Sat) 0:30-2:00

製作: ブリティッシュ・ドキュメンタリー・ファウンデーション

製作総指揮: ジェス・サーチ

製作/脚本/監督: シャオルー・グオ (郭小櫓: Xiaolu Guo)

脚本: フイ・ラオ

音楽: マット・スコット

編集: エミリアノ・バティスタ

出演: シャオルー・グオ (ミミ)、フイ・ラオ (フイ・ラオ)、ニン・ハオ (フー・ニン)、ジャン・ヤン (リン・ハオ)


物語: フイ・ラオは北京に住む煮詰まっている脚本家で、今日も書いたばかりの脚本を突き返される。ラオは脚本を読み返して素直にそのできの悪さを認め、主人公のリン・ハオのキャラクターを改めて考え始める。彼は南の方の故郷でちょっとした諍いからガール・フレンドを殺してしまい、逃亡の旅に入る。どこへ行っても定住できないハオは北京にも来るが、やがて、ロシアと国境を接する中国の最北端の小さな町、漠河を目指す。そこは一日20時間日が沈まず、オーロラが見えるというのだった‥‥


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公共放送のPBSの「インディペンデント・レンズ」は、多少なりともアメリカのインディ映画界、特にドキュメンタリーが気になる者にとっては避けては通れない番組枠であり、この番組と、同じくPBSの「P.O.V.」、それとペイTVのHBO/シネマックスがたまさか放送するドキュメンタリーを押さえておかないことには、このジャンルの話ができない。だから実際に見る見ないは別にして、これらの枠/チャンネルで放送される番組のタイトルには一応目を通す。


インディ作品、特にドキュメンタリーは作り手のものの考え方が前面に出てくるから、癖が強くて万人向けとは言い難く、実際にはタイトルだけチェックして見ない時の方が多いのだが、それでも時に気になるタイトルはかかる。例えば日本人の目から見て気になる作品を挙げると、単館上映でほとんどのアメリカ人が劇場で見る機会のなかった「ミリキタニの猫」だとか、「ドキ-ドキ」というような作品は、「インディペンデント・レンズ」がなければ人に知られることなく終わったに違いない。あるいは最初からこの枠での放送が決まっていたPBSの援助によって製作された作品だったのかもしれない。


特に「レンズ」は、「P.O.V.」に較べても、ドキュメンタリーに限らないフィクションともノン・フィクションともつかない前衛/実験的作品を平気で編成するから、さらに独特の癖がある。番組の最初に「P.O.V.」にはないホストが出てきて前口上と共に解説を加えるのは、そのまま見ただけではわけがわからない作品が多いことの証明だ。過去、イーディ・ファルコやドン・チードル、スーザン・サランドン等の名だたる面々がホストを歴任しており、今シーズンの「レンズ」はテレンス・ハワードがホストを担当している。いずれにしても、金を払わなければ見れないペイTVのHBO/シネマックスの敷居が多少高いため、無料で見れるPBSがなければ、アメリカのドキュメンタリー界はまず機能しないと断言してしまっていいだろう。


その「インディペンデント・レンズ」で放送された、中国の女性監督シャオルー・グオの「ハウ・イズ・ユア・フィッシュ・トゥデイ?」だが、この作品、ジャンル的に実はドキュメンタリーともなんとも形容のしようがない。見る前に読んだ評では、擬似ドキュメンタリーだとか、ドキュドラマなんて言い方をする媒体もあって、要するにどうやら現実と虚構の境い目が曖昧な作品らしい。それで逆になにやら興味を惹かれ、では、と思って見始めたのだが、まあ、確かに現代の中国を写し撮った一部ドキュメンタリーではあるが、これはやはりドラマと呼ぶのが正しかろう。


基本的に作品は二つの視点、一つは煮詰まった脚本家ラオ、もう一つはそのラオが書いている脚本の主人公ハオの視点から綴られる。とはいえそれだけなら誰の目から見てもドラマだろうが、実は作品にはもう一つ、この作品を作っている作り手の視点が、オープニングをはじめ随所に挿入される。物語の中でラオとハオは二人共中国最北端の辺境、漠河を目指すのだが、その話の始まるそもそものオープニングで、いきなりこの作品を作っている者たちによって、漠河行きの列車に乗っている乗客に、漠河とはどういうところか、行ったことはあるか、なんて質問がされる。


列車は漠河を目指して走ってはいるが、駅からさらに離れたところに町があるため、漠河方面行きの列車であっても、実際には漠河に足を踏み入れたことのない者の方が大勢を占めるのだ。それでてんでみんな勝手に漠河の印象を述べている。むろん、だからこそ想像がかき立てられるとも言える。因みにこの漠河であるが、英語字幕ではMoheと表示されるのだが、実際に登場人物の発音を聞くと、モフ、あるいはモクという風に聞こえる。ネットで検索したら、日本語サイトだとほとんどがモーホー、モホと表記していた。中国語発音の表記は英語であろうと日本語であろうとかなり難しい。


作品は一応はストーリーのあるドラマであり、前半の見所はやはり、ラオという住んでいる者の視点から見た今現在の北京、および中国国内を点々とするハオと共に移動する、その他の中国の現在をとらえた映像にあると言える。特に脚本家というたぶんどちらかというとインテリ層の部類に属していると思われるラオの生活は、なかなか興味深い。自分の作品が書けずに苦しんでいるラオは、深夜TVで映画の解説をしたり、映画学校で脚本の書き方を教えることで生計を立てている。


彼はまず通常、ファスビンダーかパゾリーニの作品を見せることで授業を始める。その日はロメールの「緑の光線」を生徒たちに見せ、その後ディスカッションのために教室に戻ってきたら、生徒たちは誰もいなかった、なんて挿話が語られるのだが、ここで最も印象的なのは、中国でファスビンダーやパゾリーニやロメールが自由に見れているのかという発見にある。たぶん自由にではなく、映画学校という特殊性もあるのだろうが、しかし、ロメールやファスビンダーはともかく、アン・リーの「ラスト、コーション」が上映禁止処分になったという中国でパゾリーニなんか、まず同様に検閲対象だろうに。それともぼかしが入ったり再編集済みのフィルムが出回っているのだろうか。


それに、「緑の光線」のディスカッションに生徒が誰も姿を現さないというのには、私の方こそ憤慨してしまった。「緑の光線」を見て心ときめかすことがなかったり何も言いたいことがないような人間には逆立ちしてもいい映画なんて撮れないから、そんなやつ相手にするだけムダだと半ば本気で腹が立った。ラオの住居には小津安二郎のDVDなんかもあったから、ラオが、ひいてはこの作品の作り手がかなり映画好きなことだけは確かなようだ。


話は北京に住むラオに中国を流れてきたハオがシンクロ、というかニア・ミスして、その後二人共漠河を目指すという展開になる (むろんハオは虚構の人物だが。) 冬は零下30度という中国一寒い場所を訪れるのだ。そこってオーロラ (ノーザン・ライツ) が見えるんだよね、なんていう会話が出てくるところなんか見ると、漠河という地名は中国人の目から見るとたいそうロマンティックというか、北の果てという印象をとても強く与えるのだと思う。日本で網走とか知床、オホーツクなんて地名を聞いた時に人が受ける印象と似ているんじゃないかという気がする。オーロラを見るために北の最果ての地を訪れる。要するに中国版「緑の光線」だ。


が、冷静に考えると、その北にはさらに広大なロシアのツンドラの大地が広がっている。どんなに漠河が骨身に染みるほど寒かろうと、シベリアに流された者はもっと寒い思いを味わったに違いない。漠河はそのロシアと川を一本隔てただけで繋がっており、川向こうはロシアなのだ。その川だって冬季は当然凍結して、その上を歩いてわたることもできるだろう。夏だって声をかければ届く距離に違いない。それで川向こうで釣りをしている他国の人に向かって、「おーい、今日の魚の調子はどうだ」とお互いに声かけて呼び合ったりするのかもしれない。作品タイトルはここから来ているわけだ。


作品としては、唐突に何箇所か挟まれる列車内インタヴュウを別にすると、主人公二人が現実と虚構の狭間で触れ合っていたとでも言うべき作品の手触りが、ラオとハオ、さらに作品の作り手まで全員漠河に到着したことで、後半の30分はいきなりドキュメンタリー・タッチになって、印象ががらりと変わる。たぶん作り手が目的地であった漠河に到着してしまったために、それまで頭の中に存在していた虚構の登場人物が吹っ飛んで、自分の興味のあるものだけを写し撮っただけなんじゃないかと思える。


そこまでは曲がりなりにもラオ、ハオ、作り手という三者三様の立場が共存している作品であったものが、漠河に着いたとたん、いきなり焦点が英語を学習する小学校 (中学校?) と賛美歌を歌う教会とラオが滞在する民宿のような宿の三点に集中し、ラオもハオも忘れ去られてしまうのだ。なぜ下手な英語を発声する先生や子供たちをとらえ続けなければならないのか、なぜ賛美歌を歌う教会の人たちばかりこんなに映さなければならないのか、なぜ飯を食う宿の経営者夫婦をこんなに映し続けていなければならないのか、戸惑うくらいだ。


一方でそれまでにも何か見ているこちらの方が戸惑ってしまうような映像は随所にある。まずよくわからないものの第一に挙げられるのは、ハオの話に出てくる同宿のビジネスマンだろう。この押しの強い男はなにやらハオに迷惑かけまくった挙げ句、部屋に警察の制服を残して出て行く。彼は本当に警察官だったのか。よくわからない。しかし、それでもこのシーンは、なにやらよくわからないものに追われるように切羽詰まりながら中国を移動するハオという印象を強めるため、わからないなりに効果がないこともない。


しかし幕切れ間近の、ラオが漠河で厄介になる宿の、延々ともぐもぐくちゃくちゃと口の中で音を立てながら魚をすっぷり続ける宿の旦那と、その隣りで頬杖をついているだけの奥さんをただただ延々と数分間にわたって映し続けるフィックスのショットは、これはまったくわけがわからない。ほとんど強引に、フィックスで登場人物が食事するシーンを描くことを得意とした小津に対するオマージュかと解釈してみようかとも思ったが、それならばやや斜め上から俯瞰するような形で撮るのはむしろ小津に対する冒涜としか思えず、やはりよくわからないとしか言いようがない。ただし、それはそれでこの土地の倦怠、鬱屈したような気配というものは感じとれ、それを感じている妻、鈍感な夫、みたいな雰囲気は伝わってきたが、それが言いたいことか? やはりよくわからない。ただ、化粧気のない奥さんは、実は上手に化粧するとかなり美人に化けるのではと思わせられた。


監督のシャオルー・グオは作家でもあり、「A Concise Chinese-English Dictionary for Lovers」は欧米で翻訳されているそうだ。しかしこの本もグオの前作品である「The Concrete Revolution」も、実は私は聞いたことはない。とはいえ中国にも着実に次の世代の映像作家は育ってきているようだ。列車内で作り手が乗客に漠河に行ったことがあるかとインタヴュウをして回るのだが、カメラには映らないが、どうもそのインタヴュウをして回っているのがグオっぽい。その彼女、インタヴュウの途中で、こんなところで勝手に撮影などしちゃいかん、といかにも官僚的な男性乗客から頭ごなしに怒鳴られる。それでカメラは、許可はとりましたと弁明しながらもすみませんと言ってすぐ引き下がる。たぶん、やはり中国ではお上から睨まれるのはまずいんだろう。


それで列車内の廊下を撤退しながら、カメラ・クルーがグオを、「いきなり、ハイ、ユーなんて気安く呼びかけるからダメなんだ、ここはBig Brother (大兄?) といかないと」とたしなめるのが聞こえてくる。一方録画状態のまま手に持ったカメラは、その間、乗客ではなく廊下とドアだけを延々と映し続けているのだ。たぶんこれが中国の官僚主義というのをどうしても視聴者に見せたかったのだと想像する。ドキュメンタリーという点では、この瞬間が最も今の中国を実感させてくれた。つまり列車内におけるインタヴュウも、それ相応の効果をちゃんと上げている。それが初期に考えていたものとは違ったと思うが。







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ハウ・イズ・ユア・フィッシュ・トゥデイ?   ★★★

 
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