9世紀中国。腐りきった唐政府に対し、飛刀門と呼ばれる義賊が暗躍して人々からヒーロー視されていた。政府軍のリウ (アンディ・ラウ) とジン (金城武) は一計を案じ、飛刀門を一網打尽にする計画を立てる。それは飛刀門の首領の娘と見なされるメイ (チャン・ツィイー) を捕まえた上でわざと逃がして飛刀門の本拠に案内させるというものだった。二人の計画はうまくいったように見えたが‥‥


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実はチャン・イーモウの前作「Hero」は、アメリカでは昨夏公開されている。既に現地初公開から2年経っており、それまでにそこかしこで作品の噂は聞いていたから、私はてっきりニューヨークでも限定公開されていたのに気がつかず、見逃したのだとばかり思っていた。そしたら昨夏、ミラマックスがド派手に鳴り物入りで大々的に拡大公開したのでびっくりしてしまった。


まだ公開していなかったのかというのもそうなら、基本的にアメリカ人がそっぽを向きやすい外国語映画、それもまだ馴染みのあるフランス映画やスペイン語映画ではなく、アメリカ人なら字幕を読む以外内容を理解する術のない中国語映画が、堂々の一般劇場拡大公開という、ハリウッド大作となんら変わらないルートに乗って公開されたことに最も驚きを覚えたのだ。


考えたら、近年のチャイニーズのアメリカへの大量流入ぶりは凄まじい。マンハッタンを歩くと、チャイナ系は既にラテン系と同じくらいの数が住んでいるという印象を受けるし、さらに中国系移民のすごいなと思うところは、たぶん、日本人なら絶対に近づかないであろうと思える、スパニッシュ・ハーレムやサウス・ブロンクス、クラウン・ハウツ近辺のニューヨークで最も危険な地域にも進出してチャイニーズ・レストランを開店するそのヴァイタリティにある。


最近のハリウッド映画で、登場人物が箸を器用 (とも言えないが) にあやつってチャイニーズの白い紙の容器からなんらかのおかずをかき込むというシーンを見た記憶のない者はないと思うが、要するに、チャイニーズはいつの間にやらアメリカの懐に深く浸透している。さらに「マトリックス」「キル・ビル」、その他もろもろのヴィデオ・ゲームを中心とするチャイニーズ・カンフーの影響は、この種の映画をアメリカ人により身近に感じさせることに貢献している。別にチャイニーズ映画が字幕つきで公開されても、あまり違和感を感じさせない土壌はできつつあったのだ。


とはいえ、そうやって「Hero」がアメリカで公開された時には、既に次作の「Lovers」が年末公開という話を聞いていたので、私は、もう、今さら「Hero」を見ようという気になれなかった。「Lovers」が別に続編というわけでもなさそうだし、「キル・ビル Vol. 2」を見たばかりだし、悪いが、ちょっとパスさせてもらっていた。いずれにしても「Hero」は意外なヒットとなり、間を置かずに「Lovers」が公開されるのは、イーモウ、およびミラマックスにとっても悪い展開ではあるまい。


「Lovers」は様々な謀略や奸計が渦巻く、各々が本音を明かさない腹黒い世界の話であり、誰が誰の味方であり、誰が誰を愛しているのか、一見しただけではわからず、話は二転三転する。さすが中国4千年の歴史は一筋縄ではいかないと思わせるが、結局、話の根幹は三角関係に陥った男女間の話にほかならない。お互いの身の上にそれぞれの事情を背負わせ、その上にチャイニーズ映画得意のカンフー・アクションを絡ませるとどうなるかというのが要するに「Lovers」であるのだが、三角関係って、やっぱり物語の基本なんだなと納得する。


そしてその物語にめりはりをつけるのが、お決まりではあるが、さらに円熟度と興味度を増したワイヤー・アクションにほかならない。難易度が昔のアクションに較べて高くなっているとは必ずしも思わないが、それでも面白くなっていると思えるのは、世界を仮想観客とした見せ方とコツを心得えたからと言える。重力を無視したワイヤー・アクションは、出てきた当初や「グリーン・デスティニー」くらいまではよかったが、さすがにいつまでもそのままじゃ観客もついてこまい。ワイヤー・アクションは次の段階に進む必要があった。


そしてそのことをちゃんとわきまえているのはさすがと言える。ワイヤー・アクションは重力を無視するのではなく、重力を感じさせる方向に進むことによってより発展した。つまり、よりアクションが本当っぽくなった。これまではよくできたファンタジー以上のものにはなり得なかったチャイニーズ・カンフー/ワイヤー・アクションが、重力という現実をとりこむことによって、アクションだけでなく、話そのものにより深みを出すことに成功している。もしかしたら熟練したカンフーの達人なら、本当にこれに近いアクションができるんじゃないかとふと思ったりなんかする。


また、人間の身体を使ってのワイヤー・アクションに限らず、その他のアクション・シーンでも印象的なシーンが多いのが「Lovers」の特色でもある。なかでも私が最も感心したのはジンの弓で、要するに「ロビン・フッド」のケヴィン・コスナーであり、「ロード・オブ・ザ・リングス」のオーランド・ブルームなのだが、弓の早打ちはガン・マンの早撃ちと同じくらい、いや、それよりも興奮させる。どっちも飛び道具であるが、速すぎて弾道が目に見えない銃弾は、その軌跡を描くわけにはいかない。それよりも遅い弓矢の方が、その運動を描くというという点で効果的に演出できるのだ。飛び道具としての銃弾を効果的に描くには、スティーヴン・スピルバーグが「プライベート・ライアン」でやって見せたように、銃弾を水の中に走らせなければならない。そのため銃を使ったアクションは、アクションというよりも様式美に近くなる。そのことは西部劇や、そのことを改めて西洋に教えたジョン・ウーの諸作を見るまでもないだろう。


とまあ、次のステップに発展したアクションに目を見張らされはするのだが、「Lovers」はそれでもいろんなところで思わず突っ込みを入れたくなるシーンが満載だ。その極め付けが、ラストの秋から冬に季節をまたがけての決闘シーンであることは論を待たない。ここでそのパワーに圧倒されて感動するか、思わず白けてしまうかで観客はほとんど二分してしまうのではないかと思われる。さすがにカメラマン出身のイーモウらしく、どうしたら絵になるかは心得ているのだが、そのためにストーリーの方を絵に従属させた嫌いがどうしてもしてしまう。


だいたい、常識で考えると、いくらなんでもそれはないだろうと思う。いったい、一人は背中に短剣が突き刺さったままの瀕死の人間が、こんな激しい死闘をいつまでも演じられるわけがないだろう。いくらワイヤー・アクションを受け入れても、一人が剣が刺さったために死んでしまうのに、もう一人が剣を刺したまま永遠と思える時間を戦い続けるという設定は、到底受け入れがたい。これは既に急所に当たった外した云々の問題ではない。


しかし、それでも、堂々とそういったシーンを演出するパワーには、圧倒されざるを得ない。作品が主人公同士の延々と続く死闘で終わる作品というと、すぐに思い出されるのは、印象は異なるがジョン・フォードの「静かなる男」と深作欣二の「ジャコ万と鉄」、それにハワード・ホウクスの「赤い河」だが、結局、それらもリアリティという点では、シーン自体がどれだけ本当っぽく撮られていようとも、嘘っぱちである。あんなに人を殴り、殴られ続けて立っていられるわけがない。しかしそれでも面白いと感じさせるのは、「Lovers」のパワーがリアリティを無視することで映画的リアリティを手に入れているからだ。「Lovers」を面白く感じない人は、きっと「静かなる男」を見ても「ジャコ万と鉄」を見ても「赤い河」を見ても面白いとは思わないだろう。


私が「Lovers」を見たのは既に公開して一と月ほど経った頃なのだが、まだかなり劇場は混んでいた。後ろに座っていた母親と10歳くらいの息子の親子は、息子がなんだか知らないがやたらとハイパーなガキで、たぶん、カンフー・ヴィデオ・ゲームの影響なんだろう、上映中かなりうるさく、周りの者から注意された挙げ句、不貞腐れて途中で席を立ってあちこち走り回って前の方の席に移動して、それでも一人でうるさくしながら見ていた。一方、後ろの方では、たぶん中国系の客だと思うが、あちらではいちいち大仰に話に反応しながら見るというのが定着しているようで、ここぞというシーンになると、いちいち大仰に相槌を打ったり、おーっ、とか、あーっ、とか、やはりうるさくして見ていた。そういう、場内がヘンに異様な熱気で包まれていた中で見ていたのも、私が「Loves」のパワーにあてられた理由の一つでもある。見る環境によってたぶん印象が異なってくるのも、生ものとしての映画を見る醍醐味の一つでもあると思った次第。






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House of Flying Daggers   Lovers  (2005年1月)

 
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