Hancock


ハンコック  (2008年7月)

ハンコック (ウィル・スミス) は通常の人間にはないスーパーパワーを持つスーパーヒーローだったが、実際はそのパワーをもて余し、事件を解決するどころか紛糾させてしまうため、人々から疎んじられている存在だった。ハンコックはある時、列車の踏み切りで立ち往生して危険に陥ったPRマンのレイ (ジェイソン・ベイトマン) を助け、はハンコックのパブリック・イメージを向上させるためのイメージ・チェンジ対策を練る。しかしそのことをの妻のメアリ (シャーリーズ・セロン) はなぜだか快く思っていなかった‥‥


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ウィル・スミスは現在、出演作が興行的に成功するという点で、ハリウッドで最も頼りになるスターだろう。何年か前の「バガー・バンスの伝説」がこけた以降は、出る作品のほとんどで主演、そのほとんどがブロックバスターという偉業を続けている。もちろんこのことは、例えばニコール・キッドマンみたいにハリウッド大作とインディペンデント映画に交互に出るのではなく、ハリウッド作品に重点的に出ているため当然ブロックバスターになりやすいからという理由もあるとはいえ、しかしこの興行実績における成功のパーセンテージは尋常じゃない。


一方スミスは当然これまで各種のヒーローを体現してきたわけだが、近年、ヒーローものは以前のようなヒーローがどこから見てもヒーロー然としているような作品たり得なくなっている。近年のヒーローは、まず自分が何者で、なんのために戦うか、何に対して戦うかを明らかにしないと戦えなくなっている。そしてそれは、スミス演じるヒーローとて例外ではない。


「ハンコック」でスミス演じるタイトル・ロールのハンコックは、自分の力を持て余して挙げ句の果てに人々から距離を置かれているスーパーヒーローという役割だ。スーパーヒーローというよりも、ただ人より運動能力、身体能力が群を抜いて秀でているだけで、それに見合うだけの頭脳やものの考え方をするわけではない。結果として、力だけで頭が伴わない者にありがちの、人から疎んじられ、必要な時だけあてにされるただの力自慢の存在だった。しかもその力というのが半端じゃなく、案配して力を使うこともできないため、せっかく頼りにされても仕舞いにはよけい事態を紛糾させるだけだった。


本人もそのことをある程度自覚しているが、ではだから何ができるかというと特にアイディアがあるわけでもない。そもそもそんなに簡単に自分の性格を変えられるものならすでにやっている。それができないからこそ酒に溺れ、スーパーヒーローのくせにほとんどホームレスの生活を送っていた。道行く人は零落したハンコックを見ても一瞥してその場を去っていくだけだ。今や彼に声をかけるのは、まだ幼い子供だけだ。


そのハンコックが列車の踏み切りで立ち往生していたPRマンのレイを助けたことで事態が一変する。かたや自分の力を持て余して、行動する指針を見失っているスーパーヒーロー、かたやアイディアだけが先走ってそのアイディアを実現させる対象がないPRマン、二人は自分に必要なものを相手が持っていることを知る。二人の二人三脚のハンコック・イメージ再生計画が始まるが、レイが最初にハンコックに提案したのは、自分の行動の責任をとるハンコックをアピールするために、これまでに自分のせいでものを壊して損害を与えた責任をとり、実刑判決を受けて刑務所入りするというものだった。まだ情状酌量の余地があるハンコックの場合、うまく行けばすぐに出てこられる。その後で罪を購い、生まれ変わった新生ハンコックを世間にアピールするというのだ。事態はレイの目論見通りにうまく行くのか‥‥


もちろんうまく行くわけがない。そこでうまく行ってしまって、はい、ハッピー・エンドでは話にならない。意外なことに人間から阻害されているはずのハンコックは、レイの妻メアリに心ざわつくものを感じてしまう。これはいったいなんなのか。果たして自分は人の女房に惚れてしまったのか。一方のメアリは、これまでうまくいってきた夫婦生活にハンコックという夾雑物が入ってきて波風立てることが気に入らない。しかしそんなメアリの思惑に関係なく、人の心が読めないハンコックはどうしても視線がメアリに向かうのを止められない‥‥


実際問題として、場が読めない、行間が読めない、人の心を斟酌できないスーパーヒーローほど始末に負えないものはないと思われる。こういうやつがいたら、物事を解決するよりもよけい事態を混乱させるだけなのは想像に難くない。最近のスーパーヒーローものは、だいたいが自分の存在理由、アイデンティティに悩んだ挙げ句、悟りをひらくかふっ切るものはふっ切って次の段階に進んできた。「スーパーマン」「スパイダーマン」もそうだ。


そのため放浪の旅に出たり自分の殻に閉じこもったりして次のステップを模索してきたのだが、ハンコックがとった方法は、酒だ。次の段階に進むというよりも、安易にアルコールに逃げることで目の前の問題を避けてきた。ハルクだってほとんど乞食同然になって人の恵みを受けながら南米からアメリカまで徒歩で帰ってきたのだが、ハンコックの場合は本当にへべれけになって道端のベンチの上で寝ているただの飲んだくれだ。自分の家こそどこぞの人里離れた崖の上にあり、空を飛べるハンコックは一飛びでそこまで帰れるのでホームレスでこそないが、一見した風体や身体中から発散しているオーラは、人々が避けて通るホームレス以外の何者でもない。


「ハンコック」の面白さが、こういうアンチ・ヒーローとしての主人公の造型に負っているのは言うまでもない。通常スーパーヒーローという場合、そこに「アンチ」という接頭詞はつかない。スーパーヒーローという言葉が暗に意味しているのが絶対的な正義なのでそれが当然だった。しかし最近のスーパーヒーローは自分の存在に悩み始めたために、それが当然のことではなくなっている。負の方向を感じさせ始めただけでなく、今回はさらにギャグになった。もはやスーパーヒーローはこれまで同様のスーパーヒーローと同じではいられない。


その八方塞がりのスーパーヒーローを、現代マーケティングになくてはならないPRマンのレイがタッグを組んで盛り立てていく。最終的にスーパーヒーローを成立させるものは正義でも内省でも克己心でも強い悪役でもなく、広告宣伝だったのだ。要するに現代社会に絶対的な正義とか悪とかいうものは既に存在しない。そしてもし正義というものが存在しないなら、スーパーヒーローの存在も必要とされず、彼らとて地道に働いて認めてもらうしかなくなる。これが資本主義の原理というものだ。情けないような気もするが、それが自然の摂理という気もしないこともない。やはりスーパーヒーローの存在を必要とする時代は終わっていたのか。


「ハンコック」はそういう進退窮まった主人公ハンコックの状態にもう一つあるひねりをもたらすことによって、ハンコックの存在理由を確かめるというよりもそういう問題提起はぼかし、新たなストーリー展開で引っ張るのだが、それはそれでちゃんと話のまとまりはつけるので面白く最後まで見せる。そう来たかという感じだ。というか、コメディであり、特にそういう問題提起は最初からそこまで考えてはいなかったというのが本当のところだろう。それでも、現代ではコメディでもやはりスーパーヒーローは以前のスーパーヒーローと同じ地平で悪と戦っているわけにはいかない。スーパーヒーローの住みにくい時代になった。


スミス演じるハンコックは要するに怠け者の情けないスーパーヒーローなのだが、元々コメディ出身のスミスが演じることで、それでもなんとなく肩入れしたくなるような造型に成功している。これがもうちょっと貧相だったり本当に汚そうだったりしたら、主人公に同一化して映画に入り込むどころか反発してしまうところだ。あるいはこれでも充分ばっちぃと思う者もいるかもしれないが、しかしこの役はスミス以外の者がやると、まず成功しないと思う。


その相方のレイに扮するジェイソン・ベイトマンは、相も変わらず冴えない目に遭う役が続く。監督のピーター・バーグが「キングダム」でもそういう役をベイトマンに与えていただけでなく、「アレステッド・デヴェロップメント」以来、彼を見るたびにそんな役ばかりだから、やはりそういう不幸な目に遭いやすい系の印象を人に与えるのだろう。特に彼女が出ていることでどうこういう話は聞こえてこないが、実はメアリを演じるセロンが結構いい。昨年「告発のとき (In the Valley of Elah)」を見た時もそう思ったのだが、最近は特に思い込みの激しさを抑えてゆとりが出始めたことがいい結果をもたらしているように思う。







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