NBCの「アメリカズ・ガット・タレント (America's Got Talent: AGT))」の2010年の第5シーズンで優勝こそ逃したものの2位に入り、全米に知られるようになった、天使の歌声と言われたジャッキー・エヴァンコの名を、実は私は結構長い間知らなかった。
当時、まだDVRを導入していなかった我が家では、番組の大部分を占めるジャッジのくだらないお喋りを聞くことに耐えられず、番組を見てなかったからだ。その後DVRを利用し始めてTV視聴方法が飛躍的に改善されると、いとも簡単にジャッジのコメントを飛ばせるようになったので、それではと番組を見るようになった。参加者のパフォーマンスだけを見ている分には確かに面白く、はまってしまって、今度はレイディオ・シティ・ミュージック・ホールで収録されていた2015年のファイナルは生で見に行ったくらいだ。
ということはともかく、おかげでジャッキーを知ったのは、彼女がAGTで準優勝してからしばらく経った翌年のことだ。たぶん私がジャッキーを見たのは、かのオプラ・ウィンフリーの長寿人気トーク・ショウの「ジ・オプラ・ウィンフリー・ショウ (The Oprah Winfrey Show)」が最終回を迎えるに当たり、ジャッキーがゲストとして呼ばれて歌ったのを見た時が初めてだったんじゃないかと思う。
ジャッキーは「オズの魔法使い (The Wizard of Oz)」のドロシーよろしく、赤い靴を履いてかかとを3回かちかち合わせて鳴らせてから、「オーヴァー・ザ・レインボウ (Over the Rainbow)」を歌った。この時のジャッキーはまだ11歳で、いかにもドロシーみたいな衣装と雰囲気、そして映画が白黒から途中でカラーに変わったように、ジャッキーが出てきた時はモノクロ画面で靴だけが赤く、歌い始めると全体的に色がつくという演出が印象的で、今でも記憶に残っている。
話は変わるが、つい最近FOXの勝ち抜きダンス・リアリティ「アメリカズ・ダンス・アイドル (So You Think You Can Dance)」で、最初登場したダンサーのジャスミンをとらえる映像はモノクロだが唇だけが紅く塗られており、やはりダンスが進行するにつれてカラーになっていくという演出があった。
スティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト (Schindler's List)」でも、モノクロ映像の中に赤いコートを着た女の子がいた。ちょっと違うがエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン (Battleship Potemkin)」でも、モノクロの映像の中に、下手くそに事後着色された赤いソ連の国旗がはためいていた。
実は赤というのは、白黒で撮ると黒よりも黒く映る。だから黒くしたい時はその部分を赤く染めるというのは、確か黒澤明の自叙伝かなんかで知った。つまり、本当は実際にはモノクロ画面で黒をそれ以上に黒く見せるためのはずの赤が、カラー画像ではその部分だけ赤く映える。どっちにしたって黒と赤の相性はすこぶるよいようだ。こういう演出で印象に残っているのは断然赤が多い。
閑話休題。いずれにしても、この辺りのジャッキーの活躍は目覚ましく、初アルバムはミリオン・セラー、公共放送のPBSが特番を組むなど、私のようにAGTを見ていなかった者にも浸透するようになった。私んちにすらいつの間にやら女房が手に入れたジャッキーのCDまであった。ジャッキーはそうやって確実に歌の世界で活躍して行くものと思え、実際にそうだったに違いない。
そのジャッキーを久しぶりに見たのが昨年のABCの朝のトーク「ライヴ! ウィズ・ケリー・アンド・マイケル (Live! With Kelly and Michael)」で、ホストの片割れのマイケル・ストレイハンがホストを務める最後の回に招かれて歌った時だ。この時のジャッキーは、私の知っている幼い可愛いジャッキーではなくなっていて、既にレイディというか、ほぼ大人の女性になっていた。このくらいの年頃の子の成長は速い。
そしてその次に目にしたのが、今春のドナルド・トランプ新大統領の就任式だ。この時ジャッキーは国歌を歌ったのだが、その時にジャッキー・バッシングの嵐が吹き荒れた。ほとんど堂々と人種差別を宣言しているようにしか見えないトランプの就任式に、天使の歌声を持つジャッキーが出席して歌う。
これがジャッキーのイメージを大きく損ねたのは否めない。私も就任式を見ていて、なぜここにジャッキーがいる、と正直言ってがっかりした。そして世の中には、がっかりどころか怒った者も多かった。その時私はまだ知らなかったのだが、ジャッキーの兄ジェイコブはトランスジェンダーで、既にこの時性転換手術を終えて女性のジュリエットになっていた。
一方、トランプがトランスを蔑視しているのは周知の事実で、今では軍にも多いゲイやトランスは必要ないと公言している。それなのにそのトランスを兄に持つジャッキーが、トランプのために歌う。あんた、間違っていると人々が思ったのも無理はない。
ジャッキー自身は、トランプのためではなく、アメリカ大統領のために歌ったのだと釈明しているが、そうはとらない者の方が多いのは明らかだろう。いくら大統領のために歌うのが名誉だからといって、その相手がトランプならば、その任は辞退して然るべきだったと、私も思う。
おかげでジャッキーの家には、今でもヘイト・メイルが舞い込んでくる。一通二通ではなく、何百何千というヘイト・メイルが送られて来るのだ。もちろんツイッターでもフェイスブックでもまだ非難される。十代の女の子にとってはきついと思う。よく折れずに歌い続けていると感心する。
各地で歌い、レコーディングも行うジャッキーは、当然学校に行っている暇はなく、見ているとホーム・スクールのようだ。また、ジュリエットは彼女自身芸能界に憧れていたらしく、ジャッキーに嫉妬していると公言して憚らない。父マイクはそんなジュリエットを最初女性として受け入れることができず、苦悩したらしい。
そんなこんなで大変な一家ではあるが、それでも内情は大小の差こそあれ、普通の一般家庭とほとんど変わるところはない、というのが、番組を見た私の感想だ。どんな家でも多かれ少なかれ家族間で軋轢や感情のもつれはあるだろうし、それはエヴァンコ家でも変わらない。喧嘩したり、仲直りしたり、どこでもそんなもんだろう。もちろんジャッキーというスーパースターがいることと、ジュリエットというトランスがいるのは、普通の家庭ではないかもしれない。しかし、なんというか、エヴァンコ家を見ていて感じるのは、フツーの家庭、というものだ。
変人だらけだったMTVの「ジ・オズボーンズ (The Osbournes)」や、六つ子のいるTLCの「ジョン・アンド・ケイト (Jon and Kate)」、19人の子がいる「ナインティーン・キッズ・アンド・カウンティング (19 Kids and Counting)」、小人の世界をとらえるライフタイムの「リトル・ウーメン (Little Women)」、あるいは出たがり醜悪人間を揃えたブラヴォーの「ザ・リアル・ハウスワイヴズ・オブ‥‥ (The Real Housewives of…)」等々、この種の密着型リアリティ・ショウは、よくも悪くも癖のある人間、普通じゃない環境にいる者たちに密着する場合がほとんどだ。でなければ番組にならない。
これらの番組に較べると、エヴァンコ家には特に目立った特徴は感じない。家自体は大きな家で多少は羨ましい気はしないではないが、ジャッキーはスーパースターだからといって威張り散らすわけでもなく、やはりいい子のようだし、ジュリエットだってトランスだからといって、今のアメリカ、ゲイくらいならどこにでもいるし、それが何か特別だとかは特には思えない。
「グロウイング・アップ・エヴァンコ」は、当初シリーズとして発表になっていたが、いつの間にやら一回限りの特番扱いになっていた。TLCが番組のシリーズ化を考えていたのは間違いないが、ジャッキーおよびエヴァンコ家のドラマに欠けるフツーさ、およびジャッキーのトランプの大統領就任時の国歌独唱のネガティヴな反応がまだ尾を引いているため、シリーズ化を断念したと考えられる。実際、番組はそれほど話題になるわけでもなく、注目されなかった。ジャッキーのこれからのキャリアのことを考えると、それでよかったんじゃないかと思える。