久しぶりに見るヴェルナー・ヘルツォークの新作はドキュメンタリー、しかもフィルムではないヴィデオ撮影の、元々はTV用として製作された作品であった。予告編だけを見て、まあ、内容は面白そうだからと気軽な気持ちで見に行ったのだが、帰ってきてから調べると、なんと製作の片棒を担いでいるのはディスカバリーで、この作品、今年中にディスカバリー・チャンネルで放送されるのは間違いないようだ。うーん、それだったら、別に必ずしもスクリーンで見る必要のないヴィデオ撮影でもあるし、待ってもよかったなあと思ったのだが、後の祭りである。


とはいえ、要するに、TV用のヴィデオ撮影番組でも、近年のテクノロジーの進歩のおかげで、ある程度はスクリーンに映してもそれほど粒子が気にならないくらいのものになっているから、質さえよければTV放映を前に劇場で公開される。そうやって「チャレンジ・キッズ (Spellbound)」「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」「ボーン・イントゥ・ブロセルズ」も、まず劇場で公開された。人々が感じていた、ドキュメンタリーというジャンルに対する敷居の高さも年々低くなってきており、今後もこういう傾向は続くだろう。


しかしそれにしてもヘルツォークって、森の中や人の手が入っていない荒々しい自然というものが大好きである。近年の「10ミニッツ・オールダー」で撮っていた短編もアマゾンの密林の中の話だったし、たぶん代表作と言えると思う「アギーレ」や「フィッツカラルド」もやはりそういう森の奥深くの話であった。原生林が好きなのか、あるいはわざわざ撮影が難しく過酷になるそいう逆境に自分の身を置いてみたいのか。たぶん両方だろうという気がする。


むろんそういう作風が彼の作品の魅力になっているのも確かだ。実は私は昔、かなり「フィッツカラルド」にやられた時期があって、その時住んでいた江古田のぼろアパートの共同の和式トイレの個室の壁に、「フィッツカラルド」のポスターを貼っていたことがある。別に誰の了解も得ないで勝手に貼ったのだが、その後ずっとはがされもせずにあったところをみると、他の住人も実は結構気に入っていたのではないかと思うのだが、訊いてみたわけではないので本当のところは定かではない。とまれ、用を足そうとしゃがみ込むと、そこに確か「くじけるな、男、大きな夢を持て」みたいなコピーが眼前に現れるという寸法になっていた。なんだか無性に懐かしい話である。


では「グリズリー・マン」が、やはり大自然と人間の葛藤をとらえる話かというと、そうでもあり、ないとも言える。「グリズリー・マン」は、アラスカのグリズリー保護運動に力を傾けたティモシー・トレッドウェルという一人の男を追うドキュメンタリーなのだが、作品の冒頭で、その主人公のトレッドウェルが保護を声高に叫んでいたはずの当のグリズリーに襲われ、命を落としたことが明らかにされる。作品はそこから遡って、トレッドウェルの人と成り、その歩みを回顧する。


最初、アラスカの自然とグリズリーの保護がテーマと思われた作品が、途中から段々トレッドウェルの行動の意味、彼がこういう運動に走った経緯等の、トレッドウェル本人をとらえる方向にシフトしてくる。純粋な環境保護主義者に見え、十何年も毎夏アラスカにキャンプを張ってグリズリー保護を訴えてきた男の過去が、捏造されたものであることが徐々に明らかにされる。


元々トレッドウェルはニューヨークのロング・アイランドの中流階級出身の、どこにでもいるような典型的なアメリカン・ボーイだった。ダイヴィングの奨学金を得、大学に進むが、そこで腰を痛め、ドロップ・アウトし、アルコールに溺れるようになる。絵に描いたような転落のコースだ。そこで過去を清算するため、ごくありふれた普通の名字をトレッドウェルという名前に改め、ニューヨークではなくオーストラリアから移住してきた人間のように振る舞い、役者を志すようになる。しかし、当時圧倒的人気を誇ったNBCの人気シットコム「チアーズ」のキャスティング選考で最後まで残りながら、役をウッディ・ハラーソンにとられたことが決定的なダメージとなる。トレッドウェルがグリズリー保護運動に入れ込むようになるのはそれからだ。


作品の中で何人ものインタヴュウイーが、トレッドウェルはグリズリーになりたかったんだという意見をもらしていたが、たぶんその通りなんだろう。彼は、周りの何ものにも影響されない、孤高の王者になりたかったのだ。彼はグリズリーと自分を同一視し、グリズリーを熱心に保護することで自分が生きていくことの証しと存在意義を得たかった。トレッドウェルからすると、あまりグリズリー保護に積極的とは見えない政府に対する、根拠のない異常とも思えるほどの悪口雑言の数々は、彼がグリズリーと自分を同一視していることの裏返しの証明でもある。


実際、トレッドウェルにとっては敵である政府関係者の話を聞くと、グリズリーはちゃんと政策的に保護されており、全体としては常に充分な個体数が維持されている。彼らにとっては、そういう自然のバランスを崩すトレッドウェルの方が、よほどグリズリーにとって危険な存在である。実際の話、グリズリーがトレッドウェルのために人間を危険なものと認識しなくなって、不用意に人間が住む社会に出没するようになったら、そのことの方が両者にとって危険であることは論をまたない。トレッドウェルがしていることは、自己満足以外の何ものでもないのだ。作品中トレッドウェルは、何度も何度も「I love grizzly」、「I can die for you」と口にするのだが、ここでのグリズリーというのは、ほとんどグリズリーに投影して見ている自分自身のことでもある。


結局トレッドウェルは、保護を叫んでいたそのグリズリーに殺される。飢えていたグリズリーに身体の大半を食べられてしまったのは、本望と言ってしまっていいのか。しかしこれで彼は本当にグリズリーになることができたのだ。可哀想なのが、そのトレッドウェルと一緒に行動していたパートナーのエイミーで、彼女は、実は功名心を捨てきれていなかったトレッドウェルのために、ほとんどヴィデオに映してもらってすらいない。ほとんど謎の人物で、トレッドウェルの巻き添えを食って彼女も殺されてしまうのに、家族は取材を拒否したために、氏も育ちも最後までほとんどよくわからない。トレッドウェルが夢想していたグリズリーに殺されてしまうことは、ある意味一つの劇に幕を降ろしたことにもなるだろうが、そのわりを食ったエイミーこそは、本当の悲劇だ。


二人がグリズリーに襲われた時、どうやらトレッドウェルはヴィデオ・カメラを準備していたようだが、録画ボタンを押すことはできても、グリズリーにカメラを向けている暇がなかった (当然だ。) そのため、二人がグリズリー相手に必死に叫びながら格闘し、逃げ惑い、命を落とす瞬間の映像はなくても、音声だけはヴィデオテープに記録されていた。ただし、実際にその音声が作品内で観客に提示されることはなく、我々は、その音声をヘッドフォンで聞いて息をのむインタヴュウイーの反応や検屍官の言葉から、その生々しさを想像するだけである。


ヘルツォーク作品では、その多くで結局人間は自然に負ける。「アギーレ」でも「フィッツカラルド」でもそうだったし、「グリズリー・マン」でもそう見える。ところが、「アギーレ」や、特に「フィッツカラルド」では最後ハッピー・エンドのように感じた幕切れが「グリズリー・マン」に用意されていないのは、これがフィクションではなくドキュメンタリーで、主人公が本当に死んでしまったこと、そのために、「フィッツカラルド」にあった、全力を尽くして戦った末に破れた故の潔さを観客に感じさせることができないということが関係していると思われる。どちらも結局は自分勝手な男の独りよがりな物語なのだ。果たしてトレッドウェルが死の瞬間に自分の生を全うしたと感じたのか、それとも後悔が一挙に押し寄せてきたのか、あるいはそういう隙すらなく、すべてはあっという間に嵐のように過ぎ去っただけなのか、その判断は観客がそれぞれ独自にするしかない。






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Grizzly Man   グリズリー・マン  (2005年8月)

 
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