Graduation (Bacalaureat)


エリザのために  (2017年5月)

9年前、「4ヶ月、3週と2日 (4 Months, 3 Weeks and 2 Days)」で強い印象を残したルーマニアのクリスティアン・ムンジウの最新作が、「エリザのために」だ。「4ヶ月」は妊娠中絶がまだ可能なぎりぎりの時に、中絶が違法のルーマニアにおいてもぐりの堕胎医を探すなんとも未来のない話だったが、将来に明るい展望が持てないという点では、「エリザのために」も大同小異だ。 

 

主人公ロメオは医者だが、だからといって裕福ではない。たぶん雇われの、パートタイムに近い医者だ。一軒家ではなく、団地のようなところに住んでいる。妻と娘がおり、浮気している。目下の悩みは高校を卒業する娘エリザの進路だが、もちろん悩みはそれだけじゃない。夫婦関係は冷え切っているし浮気相手は今後を問題にするし、誰かに嫌がらせで家の中に石を投げられる。 

 

そしたら今度は娘が暴漢に襲われる。娘は処女でないことが発覚、たとえ警察に知人がいても、犯人検挙は覚束ない。娘のボーイフレンドもてんで役に立たない。ショックで引きこもりがちになった娘をなだめたり元気づけたりしながら、ロメオは自力で犯人探しに乗り出す。その一方でコネを最大限に利用して娘を試験に合格させようとする。そしてそのすべてが逆効果となって自分にのしかかってくる。 

 

法に触れることをしたのは確かだが、それとて愛する娘のためであって、私腹を肥やそうとかしたわけではない。浮気していることは事実だが、病気がちの妻の面倒を見ないわけではない。それなのに、最終的には娘から邪険にされ、妻から家を出て行けと言われる。一生懸命生きているのに否定され、人のためにやっていることがすべて徒労に終わる。その上、今後待っているのは刑務所生活だ。あまりにも不遇でツイてなくて、こんなのありかと思ってしまう。チャウシェスク時代も暗黒時代だったようだが、現在でも事態はあまり好転してなさそうだ。 

 

私事だがうちのマンハッタンのオフィスで、うちのボスの個人的な知り合いの初老の女性が、オフィスの掃除を請け負っている。広いオフィスでもないので、一人で掃除機がけから拭き掃除までこなす。その彼女がルーマニア出身だ。話し出すと止まらないお喋りなので、私は適当に距離を置いて、話しかけられても適当にふんふん相槌を打つだけで流している。話し出すと本当に止まらないので、業務に支障が出るのだ。 

 

彼女はルーマニアでは歯医者だった。歯医者なら、ルーマニアだろうとうまくやればかなり稼げると思う。実際そこそこの稼ぎはあったようだが、それでもそれを捨てて家族でアメリカに来た。生活が楽かそうでないかというより、チャウシェスク政権の引き締めが厳しかったようだ。そこまで親しいわけでもないので詳しくは聞いてないが、たぶんそうだったに違いないだろうと思えるのは、彼女が時間を守れないからだ。 

 

彼女の場合、いつも遅刻するなんてもんじゃない。遅刻も遅刻、約束した時間から常に2、3時間遅れる。毎回必ずそのくらい遅れる。時間にルーズとかそういう程度の問題じゃない。基本的に彼女が自分のペースでやる仕事なのでこちらに実害はほとんどないが、それでも、1時に来ると本人の方から言ってきてるのだから、だったらやはり1時にオフィスに来てもらいたいと思う。 

 

しかし何時に約束しようと、彼女の場合は関係ない。朝10時に約束していると、来るのは午後1時になる。その度にソーリー、サブウェイが遅れたのなんなのと言い訳するが、いくらニューヨークのサブウェイが当てにならないからといって、彼女が働く日だけ毎回3時間遅れるということもなかろう。一度午後3時に約束してみたらどうなるか見てみたいと思っていたんだが、さすがにそれはやばいと本人も思っていたみたいで、3時に来ると言ってきたことはなかった。 

 

約束の時間に毎回必ず何時間も遅れるというのは、はっきり言って心の問題だ。時間通りに約束の場所に現れるというのを潜在的に怖れている。だから遅れる。想像に過ぎないが、ルーマニアに住んでいる時に官憲に呼び出されて、遅れたか、あるいは逆に遅れないように時間厳守したために、痛い目に遭ってそれがトラウマになってしまったんじゃないだろうか。ルーマニア時代の話になると途端に口が重くなるのを見ると、当たらずとも遠からずという気がする。いずれにしても、少なくとも医者として暮らし、金に窮してはなかったはずのルーマニアより、今ニューヨークでオフィスの掃除をしている方がましと思っているようなのを見ると、チャウシェスク時代も今も、ルーマニアで生きるのは楽じゃないに違いないと思う。 

 

「エリザのために」を見て思い出すのが、アスガー・ファルハディの「セールスマン (The Salesman)」だ。こちらは主人公の妻が暴漢に襲われ、主人公が一人で犯人解明に乗り出す。「セールスマン」では世間体を気にするために警察の力を借りず、「エリザのために」では警察が役に立たないという違いはあるが、いずれにしてもどちらにおいても警察は信用に足るものではなく、主人公が自力で犯人追求に乗り出す。 

 

その結果、真犯人を見つけようがそうでなかろうが、事態は好転することはない。個人的な正義の追求は本人の自己満足でしかなく、他の人のためにはならないのだ。とはいえ、だったら真犯人を野放しにしたままでいいということもないだろう。それなのに罪を犯した者をほっておく方が皆のためになる。いったい、何が、どこで間違ったのか。人は徒労の積み重ねで生きている、なんて証明を目の当たりにさせられたような気になる。 

 

ところで、ロメオがたぶんクルマで撥ねたと思われるものは、いったいなんだったのだろうか。これまた気になるのだった。 










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ロメオ (アドリアン・ティティエニ) の家の中に窓ガラスを割って石が投げ込まれる。誰がやったか見当もつかない。それよりも当座の問題は卒業を控え進路が確定しない娘のエリザ (マリア・ドラグシ) の将来だ。政情も不安定で大した仕事もないルーマニアにいるよりはと、英国の学校に進学させようとするが、競争率は高い。よりにもよって試験の直前になってエリザは暴漢に襲われ、怪我をして試験どころではなくなる。こうなるともうコネ頼みしかなく、ロメオはあらゆる伝手をたどってエリザを試験に合格させようとする。しかし娘のことを思ってのロメオの行動は逆にエリザの反発を招き、しかも浮気しているロメオと妻のマグナ (リア・ブグナル) の仲は決定的にこじれ、浮気相手のサンドラ (マリナ・マノヴィッチ) からは将来のことで問い詰められ、高齢の母の面倒も見なければならない。さらには娘の試験のことでコネを使った相手がギャング関係であったため、検察の捜査の手がロメオの近辺まで伸びて来ていた‥‥


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