Focus

フォーカス  (2001年12月)

予告編を見た時から面白そうな映画に見えた。時は第二次大戦もたけなわの40年代、これまで何十年も同じ会社で働いてきた中年男性が、ある日、目が悪くなってきたために、上司の勧めもあり、眼鏡をかけるようになる。その途端、上司だけでなく、彼の家の近所に住む人々の対応が変わってくる。彼は自分の生活する世界で孤立するようになり、職を辞め、嫌がらせを受けるようになる。いったい彼の何が変わったのか。いや、いったい彼の周りの何が変わったのか。


実に面白そうなミステリ仕立ての映画だとばかり思っていたのに、人種差別がテーマのわりと重い主題の映画だとは知らなかった。主人公のローレンスが眼鏡をかけた途端周りの反応が一変するのは、そうすると彼がユダヤ人に見えるからで、ユダヤ人が排斥されたのは別にナチス・ドイツだけに限らないのだ。この作品の舞台である40年代当時のブルックリンの一部はほとんど白人だけが住む町で、その中ではユダヤ人も少数民族化する。


まあ、原作はアーサー・ミラーだからな。ミラーの代表作といえば「あるセールスマンの死」だろうし、その上ミステリを書いていたという話も聞いたことがない。演出はこれが初監督作となるニール・スラヴァン (Slavinはスレイヴァンかも。スラヴィンということもありうるな。聞いたこともない名前の発音の予想は難しい) だが、堂々としたもので、インディ系の映画作家は、初監督作からだいたい既にこなれた作品を撮る。このあいだ監督第一作が公開されたマイケル・クエスタがやはりコマーシャル畑出身で、最近映画を撮るためには、コマーシャルかミュージック・ヴィデオを撮ってないとダメみたいだ。


人種差別は基本的には最も開かれているはずのアメリカにおいてさえ、いまだに根強い問題である。ニューヨークのような都会だと、差別するのがばからしくなるほどあまりにも人種が入り乱れており、ドラッグや暴力、あるいは先ほどのテロ事件のようなもっと重要な問題が頻繁に起こるので、あからさまには人種差別問題はあまり表面には出てこない。しかし少し都会から離れると、このような問題が表面化するだろうというのはよくわかる。


映画の冒頭ではプエルト・リコ人の女性がレイプされ、暴力を受けるというシーンが描かれる。次に町角でニュース・スタンドを営む、フィンケルシュタインという名前からしてユダヤ人の店主が差別を受けるようになる。フィンケルシュタインには髭を伸ばし、帽子を被ったユダヤ正教の知人がおり、頻繁に彼を訪ねてくるが、その通りに住む彼の隣人はそれが気に入らない。はっきり言ってこれは、舞台が南部であれば黒人だったに違いない。 要するに人間は誰かを差別してないといられないのだ。


主人公のローレンスに扮するウィリアム・H・メイシーは、いつもの持ち味であるどこか飄々としたボケ味とは別のシリアスな演技を見せているが、意外にも結構いい。真面目に生活しており、それなりのポリシーも持っているが、それでも、あるいはそのために世間一般からは少しずれているというような役柄であり、その点ではいつも演じている役柄の延長線上にあると言えなくもない。「ER」でやってたような、真面目一点張りの性格で、結局貧乏くじを引くというような感じだ。


ローレンスと恋仲になるガートルードに扮するのが、ローラ・ダーン。地味に、目立たない人生を生きてきたローレンスとは対照的な、派手好きで思ったことはずけずけと言うタイプの女性という設定で、これまで彼女が演じてきた役の中では、「ランブリング・ローズ」に一番近いという印象を受けた。彼女もローレンス同様、一見ユダヤ人に見えるために苦汁をなめてきたという設定だ。この二人以外では、ローレンスの隣人に扮するミート・ローフが印象に残った。「ファイト・クラブ」での狂信的クラブ・メンバーの怪演により抜擢されたのだろう、ここでも極右系の政治結社に肩入れする男を演じている。表面上は普通の人間のこっちの方が、「ファイト・クラブ」よりよほど怖い。


メイシーとダーンを見てて何か引っかかったことがあって、それが何だったかと気になっていたんだが、さっきいきなり思い出した。実は二人は今年、「ジュラシック・パーク3」で共演しているのだ。二人同時にスクリーンに登場するシーンはなかったが、「フォーカス」とはまったく毛色の違うハリウッド大作に二人とも出ていたとは。二人とも「ジュラシック・パーク3」では多人数キャストの一人でしかないが、それでもギャラは「ジュラシック・パーク3」では「フォーカス」の10倍は貰っているに違いない。その辺りで稼いで「フォーカス」のような本当にやりたい作品に出てるんだろう。


私はこの映画、面白いと思ったが、実はこの作品の評価は割れている。高く評価する者はともかく、貶す理由の筆頭は、ユダヤ人に間違えられるメイシーがまったくユダヤ人に見えないために、作品に信憑性がないというものだ。ダーンも然りである。確かにユダヤ人というのは独特の印象を人に与える。それがいつの時代も虐げられてきた歴史によって培われてきたものか、逆にそれがあるために虐げられてきたのかはわからないが、ユダヤ人が他の人種と違うというのは、人種のるつぼであるニューヨークでも結構よくわかる。なんというか、ある種の頑固さがあるのだ。これって選民思想から来ているのかはよくわからないが、自分たちから率先して他の民族とは一線を画そうとしているような印象を受ける。それでも我々アジア人から見るとそれほど他の民族と違うかとも思えるのだが、白人の中ではそれは歴然とした揺るがせようのないもののようで、そういう印象を与えないメイシーとダーンでは、作品にまったく信憑性がないということになるのだそうだ。


この辺り、主人公にちゃんとユダヤ人の血が入ったハナ・テイラー・ゴードンに主人公のアンネ・フランクを演じさせ、アンネになりきった演技で今年のエミー賞のミニシリーズ部門を制した「アンネ・フランク」とは大きな違いだ。喋りさえしなければ「ソフィーの選択」のメリル・ストリープは素晴らしいんだけどなあと言っていた知人のことも思い出した。つまり、この手の歴史や史実が重要なポイントとなる作品では、本物っぽく見えることがまず第一条件としてあり、それを満たして初めて評価の対象になるのだ。まあ、確かにハリウッド映画に日本人の役が出てきて日本語じゃない日本語を喋られると、途端に興醒めになる。だからメイシーがどんなに力の入った演技をしようとも、眼鏡をかけただけでユダヤ人に見えるという、その辺の人間にはまったくそうは見えない設定を出されただけで引いてしまう人間がいるのも理解できる。そう感じてしまう者に、でもメイシーよかったじゃないかと言っても、本人もどうしようもないだろう。そう見えないものはそう見えないのだ。この手の作品って、難しいよなあ。







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