Flight of the Red Balloon (Le Voyage du Ballon Rouge)
レッド・バルーン (2008年4月)
Flight of the Red Balloon (Le Voyage du Ballon Rouge)
レッド・バルーン (2008年4月)
パペット・ショウの声優をしているシングル・マザーのスザンヌ (ジュリエット・ビノシュ) は、小学校に通う息子のシモンを抱えて毎日気の休まる暇がない。彼女は新しいシッターとしてチャイニーズのソン (ファン・ソン) を雇う。映画の勉強をしているソンはシモンとうまくやっていくが、しかしスザンヌの方は部屋を貸しているテナントが家賃を払ってくれないなど、やはり些事に忙殺される日々が続くのだった‥‥
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土曜日の朝、さて今日は何を見に行こうかとヤフーの映画コーナーをチェックしていて、近くの劇場の上映予定に「The Red Balloon」という文字を見つけた時は、思わず息が止まった。これは、と思って上映時間をチェックして、フランス映画、上映時間34分と書かれてあるのを見た時は、喜びと落胆とが半々だった。こいつはホウ・シャオシェンのリメイク新作の「レッド・バルーン」ではなく、そのオリジナルの1956年のアルベール・ラモリスの「赤い風船」であるらしい。シャオシェンの新作を上映できないから、オリジナルでお茶を濁そうという腹か。
それで念のためにヤフーの上映リストではなくその劇場のホーム・ページにアクセスして確かめると、確かにパスカル・ラモリス、34分となっている。やっぱりそうか。一方、私はクラシックと言われているこの作品をまだ見たことはなく、それはそれで興味を惹かれるのも事実だ。ここはオリジナルを見ておくのもいいかもしれない。そう思って上映時間を調べると、この作品、34分であるはずなのに1時の上映が終わると、次の回は3時半なのだ。
これはおかしくないかと思って、はっとした。もしかして新旧同時上映とか。それでホーム・ページでは埒が明かないので劇場に電話して確かめようとしたが、実際に劇場が開かないことには録音による上映案内だけで確かめようがない。ええいままよ、オリジナルでもよし新作でもよし、両方見れればなおよしということで、女房も納得させ、実際にどれを見れるのか判然としないまま劇場に足を運んだ。昔、学生時代に特に何を見るという目的もないまま池袋の文芸座に行ってその時にやっているものを見るという見方をよくしたものだが、時間が貴重な現在で何を見るのかもよくわからないまま劇場に行くという経験も久しぶりだ。
上映が始まると、スクリーンにHou Hsiao-Hsienという文字が現れ、オリジナルではなく新作の上映であることが知れる。やっぱりそうだったか。しかし私たち夫婦同様この映画を見に来ているその他の観客は、そのことをちゃんと事前に知っていてこの映画を見に来ているのだろうか。全員が全員近くに住んでいて何を上映しているのかちゃん把握していたとも到底思えないのだが。それにしても、あのパスカル・ラモリス、34分という表示はいったいなんだったのだろう。
さて、近年のシャオシェン作品はなにか大きな事件やドラマを描くという感じではなくなりつつあるのだが、それはこの「レッド・バルーン」も例外ではない。オリジナル作品も特にストーリーで見せるタイプではないようだが、今回は人生のあるなんらかの契機ですらなく、単に断片を切りとってくるという印象がさらに強まっている。起承転結ではなくずっと起起起起のまま始まり終わるという印象が濃厚で、実は特に赤い風船も、時折思い出したように現れたりもするが、それはなんらかの示唆や暗喩以上のものではなく、特にストーリーに大きく絡むというわけでもない。それが実際に存在するものなのか、登場人物の心の中だけにあるものなのかもよくわからない。
さらにストーリーとは別に最も印象に残るのがその撮り方で、やたらと鏡に反射したりガラスを通したりして輪郭が定かではない描写が多い。主要登場人物の一人であるナニーのソンが最初に登場する時、彼女はバスから降りて初めて姿を現すのだが、その出入り口はバスの向こう側にあり、我々の目にはバスを出入りする人々の姿はほとんど見えない。そのバスが去った後もカメラはしばらくは動かないままなので、スクリーン上の人物のいったい誰を映そうとしているかよくわからない。交差点でしばし佇んでいたソンが動き出し、それをカメラが追い始めるので初めてソンを撮っているのだと気づくのだが、それまでは何を撮っているのかよくわからないスクリーンのあちこちに視線を走らせざるを得ない。
このショットはかなりミハエル・ハネケの「隠された記憶 (Cache)」を思い出させる。誰を映しているかわからないフィックスのショットが登場人物の行動に合わせて動き出すというシーンだ。場所が共にパリ、しかし演出は共にフランス人ではない外国人というところまでそっくりだ。「隠された記憶」では、それでも大勢の人物が同時に似たような行動を起こしているので、カメラが目的の人間に合わせて動き出しているのだと知れても、それでも実は誰を追っているのかよくわからなかったりする。
ハネケの場合は敢えて観客に不親切にすることで集中を要求するのだが、これがシャオシェンの場合、そのために演出家の意図を探ろうとスクリーンに集中することは事実なのだが、だからといってそのことが特に観賞の妨げになるとも思えないところが特色と言えるか。「隠された記憶」はいわばハネケと観客の一対一の勝負で、これがわかるか、ではこれは、となにやらハネケに試されているような気にさせられるのだが、シャオシェンはそういう検証や解読という行為を必要としないというか、単純に演出家が気にしていないという感触を受ける。そういう、スクリーンのどこに重要な登場人物がいるかわからないということを含めて、観賞、解読するということよりも感じることの方に重点を置いているのがシャオシェンの演出なのだ。
実際「バルーン」では、しばしば登場人物、あるいはその時に発言している人物はスクリーンに登場しない。ソンが最初に登場した時にどこにいるのかわからないということもそうなら、主人公のスザンヌが登場する時もそうだ。彼女は人形劇の声優なのだが、最初そのパペット劇を見せるカメラがゆっくりとパンして声を担当しているビノシュを見せるまで、ゆうに数分はかかる。その他にも、その場にはいるのに映してはもらえないとか、その人間の声しか聞こえないという状況が随所にある。
こういう演出がある意味不親切なのは確かで、実はそんなに広くはないと思えるスザンヌのフラットにカメラがいる時間はかなり長いのだが、だいたいいつも一方向からのフィックスで撮られるそのフラットのおおよその間取りがわかるのは、ほとんど映画も終わる間際なのだ。カメラをたった一度だけ切り返してくれれば、それだけで部屋の大きさやだいたいの家具の位置がつかめて見ているこちらも落ち着けるのにそれをしない。スザンヌはロフトを自分の仕事部屋として使用しているのだが、その対面にもう一つ対称となったロフト・スペースがあり、そこはシモンの部屋として使われているなんてことがわかるのは、映画が終わる1分前である。
そういう演出スタイルや、ガラスを通過したり鏡に反射したりしてはっきりとしなかったりいくらか歪んでいたりする人物像、声だけで映らない人物等、シャオシェンはどうやったら登場人物を映すことなく映画を撮れるかを実験しているようにさえ見える。さらにほとんど大きな事件が起きるわけではないストーリー展開、というのもはばかれるストーリーは、単に人生のどこにでもある一瞬を切りとってきただけという風にも見える。これをミニマリズムと呼んでいいものか。一方、人物をできるだけ映さないように映さないようにしているように感じるのと裏腹に、スザンヌの部屋の中はかなり散らかり放題で、ミニマリズムどころかものが溢れているという印象を受ける。シモンが遊ぶプレイステーションなんて、文明の余剰たるものの代表であって、ミニマリズムの対極にあるものという気もする。
私は小説ではほとんど事件らしい事件の起こらない私小説なんか退屈で読んでらんないと思っているのだが、映画だと面白く感じられるのは、単に視覚も使用する媒体の違いというよりも、やはりシャオシェンの腕によるものだという気がする。何を撮って、何を撮らないかという取捨選択の目なのだ。実力がない演出家がこういう作品を撮ると、本気で死にそうなくらい退屈な作品になるだけだろう。
と私なんかは思いながら見ていたわけだが、人によってはやはり退屈と思うのを禁じ得なかったようで、私が見た劇場でも、それなりに誉められていた評かなんかを読んで来たのだろう、それなりに客は入っていたが、そのうちに前からも後ろからもいびきが聞こえ出した。さらには上映が終わった後、隣りで見ていた女房までが、ぽつりと寝ちゃった、とつぶやいた。
おまえ、確か「百年恋歌 (Three Times)」でも寝たよな。あん時は3部作で、しかも白黒映像で特に動きのない第2話は確かに仕事帰りには眠気を誘ったかもしれないが、充分睡眠をとった翌日のシャオシェンでお前まで寝るか。シャオシェン作品がどんどん夾雑物を排除する方向にシフトしていることは認めるし、そのことが一般的なドラマを生み出しているわけではないことも認めるが、しかも一度ならず二度までも。もうお前はシャオシェン作品には連れて来ない、と私が癇癪起こしたのは言うまでもない。