放送局: Sci-Fi
プレミア放送日: 12/3/2000 (Sun)-12/5/2000 (Tue) 21:00-23:00
製作: ニュー・アムステルダム・エンタテインメント、キルヒ・メディア、ヴィクター・テレヴィジョン
製作総指揮: リチャード・ルービンシュタイン、ミッチェル・ゲイリン
製作: デイヴィッド・カッピス
監督/脚本: ジョン・ハリソン
原作: フランク・ハーバート
撮影: ヴィットリオ・ストラーロ
編集: ハリー・ミラー
音楽: グレーム・レヴェル
美術: ミレン・クレカ・クラコヴィッチ
衣装: セオドア・ピステック
出演: アレック・ニューマン(ポール・アトレイデス)、ウィリアム・ハート(レト・アトレイデス)、サスキア・リーヴス(ジェシカ・アトレイデス)、イアン・マクニース(ウラディミール・ハルコネン)、バーバラ・コデトヴァ(チャニ)、ジュリー・コックス(イルラン・コリノ女王)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(皇帝シャダム4世)、マシュー・キースラー(フェイド・ラウサ・ハルコネン)
物語: 西暦10091年、アトレイデス家の当主、レトは皇帝シャダム4世によって砂の惑星アラキスの統治を任される。この惑星は宇宙でたった一つ、すべての種族が羨望する秘薬「スパイス」を生産し、そのためこの惑星を御すものは宇宙を制するに等しいと考えられていた。アトレイデス家に対抗する勢力のハルコネン家はそれが面白くなく、当主ウラディミールはレトの失墜を企んでいた。
レトの一人息子ポールは、母ジェシカと共にアラキスに赴く。ジェシカは預言者の家系の出身で、ポールもその素質を受け継ぎ、得体の知れない予知夢にいつも悩まされていた。ポールはレトの開いたパーティで、皇帝の娘イルランと知り合いになる。イルランに惹かれるものを感じるポールだったが、しかし、ハルコネン家の放った刺客は既にアトレイデス家の中に深く入り込んでおり、ついにレトはその手にかかって倒れる。
ポールとジェシカは生きとし生けるものがすべて死に絶えるという砂漠の真ん中に捨て去られる。そこは巨大な「サンド・ウォーム」の巣食うところであり、生き延びていくためには砂漠の流浪の民フレメンの助けにすがるより他はなかった。しかし自分たち民族が生き延びるためにたとえ敵でなくても一滴の水も無駄にできないフレメンの掟は厳しく、ポールとジェシカはフレメンの課す様々な試練に耐えなければならなかった‥‥
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製作費総額2,000万ドル、ほとんどSci-Fi (サイ- ファイ) チャンネルの将来を託されたかのような6時間SFミニシリーズである。フランク・ハーバートが65年に発表した「デューン 砂の惑星」は、SF小説の古典。実は私は読んだことはないのだが、ハヤカワSF文庫の石森章太郎が描いた表紙はよく覚えている。何度も手にとっては読んでみようかなとは思ったのだが、結局これまで果たせずじまいに終わっている。SF小説を読まなくなってもう20年くらいになる。ガキの頃は私も筒井康隆の「時をかける少女」とか熱中したんだけど、大人になるともう駄目だなあ。
しかし、小説は読まなくなったが、これが映画やTVだと話はまた別である。小説だとどうしても嘘臭いと思ってしまう設定も、実際に映像として画面に出されるとそれなりに納得できる。というか、納得できなくても考えている間にどんどん先に進んでいっちゃうから、うまく騙されてしまうということもある。ま、とにかくそういうわけで、SFものでも映画やTVならとつおいつ見てる。それに今回はSci-Fiチャンネルの今年最大の話題作の登場である。まあ見なずばなるまいと思っていた。しかし、この番組に特別に食指が動いていたというわけでもなかったことも事実である。
その私が逆にこの番組を積極的に見たいと思うようになった最大の理由は、撮影監督にクレジットされたヴィットリオ・ストラーロの名前を発見したことにある。私は最初、この番組の予告編をなんと劇場で見た。えらくゴージャスな映像だなあ、結構金がかかってそうだ、いったい誰が監督してる何という映画なんだろうと思っていたら、それがTV番組の予告編だった。それでついでにその撮影がストラーロということも知ったのだった。ストラーロ! ベルナルド・ベルトリッチのほとんどの作品を撮り、フランシス・コッポラの「地獄の黙示録」やウォーレン・ベイティの「レッズ」を撮った、3度のアカデミー賞撮影賞に輝くあのストラーロがTV番組を撮る!? ほんとかよ、おい。
そしたらほんともほんと、あのストラーロがこの「デューン」を撮っているのであった。ストラーロは実は「デューン」と縁が深く、リンチ版「デューン」でも撮影監督としてサインする寸前まで行ったのだそうだ。それがコッポラの「地獄の黙示録」に担ぎ出されたために果たせなかったのである。私が全映画史の中で最も偉大な撮影監督であると思っている者は3人いる。ネストール・アルメンドロスとゴードン・ウィリス、それにこのストラーロだ (これにヴィルモス・ジグモンドを加えて4人にしてもいいのだが、最近ジグモンドはこれといった仕事をしていないからなあ)。いくらストラーロでも流石に「ブルワース」なんて見なかったが、ただで見られるTVでストラーロ作品が見れるというなら、ジャンルなんか気にしている場合ではない。とにかく見なくては、と俄然番組に興味が湧いてきた。
リンチ版「デューン」が失敗作の烙印を捺され、ボロクソに言われた最大の理由が、膨大な量の原作を2時間という長さに無理やり押し込めたために、原作の持つ雰囲気や哲学を損なったというものであった。原作の忠実なファンはこれに納得せず、初めて見る者は内容をあまりにも端折ったために何が何やらわけがわからないと、とにかく双方からけちょんけちょんに言われた。見事な映像やアクション・シーン、リンチ独特の美学等、見るべきところはあり、これはこれで新たなファンを産み出したということも否定はできないが、いずれにしても興行的には失敗に終わった。その後TVで3時間の長尺版も放映されたが、その時はリンチの名前がクレジットから外されるなど、呪われた映画として映画史に名を残している。
6時間ミニシリーズの「デューン」は、無理に内容を端折る必要がないという点で、映画よりも向いていると言えるだろう。実際、第1話は主人公ポールの父レトが殺されるまでという、映画ではほんのマクラに過ぎなかった部分を時間をかけて描き込むことによって、複雑な人間関係を説明することに焦点を置いている。父を殺されたポールと母のジェシカが砂漠に置き去りにされるという、さて、これからが本題、というところで第1話が終わるのだ。うーん、気が長い展開だなあ。
それでも、私は最初、何が何やらほとんどわけがわからなかった。冒頭に出てきてポールに何やら質問する、あの魔女みたいなばばあは一体何者なんだ? 彼らはどこに向かっているわけ? その他にも有象無象出てくるその他の人物との人間関係はどうなっているのか? こういった疑問は番組を見ている間に少しずつ解明されるのだが、それでも原作を知らない者にはつらい。2時間かけてやっとなんとなく人間関係がつかめてきたかなという感じなのだ。これは確かに2時間にすべてを詰め込まないといけない映画ではきついよ。
その上、あの原作の中でしか通用しないSF特有とも言える独特の固有名詞の羅列である。注意していないと、それが人の名前なのか部族の名前なのか星の名前なのか他の生物の名前なのか、それとも特殊な力を指すのか、判断に迷う。ああ、思い出した。私がSFを読まなくなったのが、一作毎にこういうまったく異なった世界を構築されることについていけなくなったからだった。留まるところを知らないイマジネーションの鮮烈な啓示と言えば聞こえはいいかも知れないが、とにかく私はやってらんない、ついていけないと思った。しかし、はまり込むとこれが癖になるだろうというのも容易にわかる。特に「デューン」はその壮大な別世界の構築によって知られている物語である。その世界にどっぷり浸り込むと容易には抜け出せなくなるんだろう。こういう作品であるから、確かに映像化には少なくともこのくらいの長さは必要であっただろうと思われる。
ストラーロの映像は、これはやはりスクリーンの上で見れればもっとよかっただろうにとは思うが、小さなTV画面で見ても、他の凡百のSFシリーズとは一味も二味も違うのが歴然。ストラーロが得意としている、ムードによって画面を赤っぽくしたり青っぽくしたりするあの技も、「ディック・トレイシー」を見た時にはやり過ぎだと思ったが、ここではSFという設定ということもあって無理なく内容と融合しており、違和感はない。放送も画面も上下に黒枠を入れるレターボックス・ヴァージョンで、なるだけ横の比率を高めて映画のスクリーンのような感じを出そうとしている。最近、TVでは「ER」もこのレターボックス方式で放送しており、来るべく横長のデジタルTV時代を睨んでいるのが窺える。
実はこの番組で私が最も失敗していると思ったのが、誰あろう主人公のポールに扮するアレック・ニューマンである。彼は奸計によってフレメンの世界に追放された後は、そこで救世主となって活躍するという設定なのだが、今一つ彼にはそういうカリスマが欠けるし、演技力もとりわけ優れているというわけでもない。まあ、他に見所があるから助かってはいるが、彼だけを中心に番組が回ったいたら大失敗は免れ得なかったと思う。ポールの父レトに扮するウィリアム・ハートも、なぜここまで感情を抑えなければならないのかと思うくらい表情に乏しく、いつも暗殺の危機に瀕し、肩に大任を背負う一族の長の重圧ということを抜きにしても、ここはもう少しやりようがあったように思う。まだ「ロスト・イン・スペース」の方がよかった。
演技陣では他に、アトレイデス家の妃ジェシカに「バタフライ・キス」のサスキア・リーヴス、ハルコネン気の家長ウラディミールに「普通じゃない」のイアン・マクニース、皇帝シャダム4世に「ハンニバル」が公開間近のジャンカルロ・ジャンニーニ、王妃イルランに「ネバーエンディング・ストーリー3」のジュリー・コックスらという布陣。舞台俳優を中心に米、欧州の各国から役者を集めている。リーヴス、コックスらの女性陣はなかなか役にはまっており、好演しているのだが、やり過ぎと思えるくらいのマクニースが、私は実は一番気に入った。ああいうのって、これ以上役柄を誇張したら白けるという一線をわきまえるのが難しいのだが、ここでは成功していると思う。
所々実に印象的なのだが、時としてちゃちくなってしまう「サンド・ウォーム」は、あとほんの僅かリアルにできれば申し分なかったのだが。ハリウッドの本当の一線級ならもう少しうまくやれるだろうということがわかっているだけに、惜しいと思う。フレメンの世界に身を投げたポールがその真価を試される試験で、一人サンドウォームの背中に跨がって馬のように乗りこなすというシーンでは、その下手くそな合成シーンに思わず溜め息が出た。ああ、もったいない。流石のストラーロも救いようがなかったか。この辺りにもっと金をかけられたらよかったのに。製作費2,000万ドルでも全然足りなかったようだ。
監督/脚本のジョン・ハリソンは、実はジョージ・A・ロメロが監督したホラーの古典「ゾンビ」で、ねじ回しを耳に突っ込んだゾンビ役で最も知られているという、元俳優の変わり種である。「ゾンビ」撮影中にプロデューサーのリチャード・ルービンシュタインと親交を得、製作や演出業にも進出するようになった。ルービンシュタインはミッチェル・ゲイリンと共に「ザ・スタンド」、「ランゴリアーズ」等、スティーヴン・キング原作のホラーを多く製作している。音楽は「タイタンA.E」、「ピッチブラック」、「レッド プラネット」等、近年SF映画の作曲が続くグレーム・レヴェル、美術は「デリカテッセン」のミレン・クレカ・クラコヴィッチ、衣装は「アマデウス」でオスカーを受賞したセオドア・ピステックが担当している。
近年、SFでは特に女性がやたらに頭に帽子だか羽根だか飾りだか知らない大きな飾り物をかぶるのが流行している。流行とまでは言わないが、「スターウォーズ:ファントム・メナス」でもナタリー・ポートマンがスクリーンに映る度に、まるでファッション・ショウのようにこれでもかというくらい様々なかぶりものをしていた。「デューン」もその例に漏れず、特に王妃イルランの頭を中心に様々な衣装を見せる。実は私はこういうのって嫌いじゃない。本人は歩き難いだろうとは思うが、こういう派手なファッションを見るのってSFの楽しみの一つじゃなかろうか。衣装のピステックも楽しんで仕事しただろうと思う。
実は6時間のこの「デューン」、まだ時間が足りなかったというのが、見終わっての私の正直な印象である。レトが暗殺されるまでに使った時間が約2時間、それでも舞台装置を急ぎ足で説明するのに精一杯だった。本当のストーリーはまだ始まってすらいないのにである。こういう貴種流離譚の醍醐味は、いったんは地に落ちた主人公が、想いを胸に成長していく過程にある。しかしそれが始まるまでに既に3分の1の時間を消費してしまっており、もう時間がないのだ。結局後半の4時間はポールのフレメン世界での生活の描写に忙しく、ポールの胸のうちというより、フレメンの常軌を逸した日常世界の描写の方に気を取られていた。
この話の映像化は、6時間のミニシリーズでもまだ短い。そのためか、Sci-Fiは既に「デューン」続編製作を発表している。まあ、これまでのチャンネル記録の一挙に2倍の視聴率を獲得したそうだから、それは当然だと思うが、しかし私は「スタートレック」と同じように、シリーズ化して少しずつ話を進めていくのが最も適しているんじゃないかと思う。原作だってまだまだ続くわけだし。考えれば、「スタートレック」だって、映画はTVを知らない者にとってはまったくわけがわからなく、つまらないものだった。「デューン」もこの路線を狙ったらどうだろう。絶対カルト化してダイ・ハードなファンがつくと思うが。
