放送局: PBS

プレミア放送日: 3/18/2003 (Tue) 21:00-0:20, 3/19/2003 (Wed) 21:00-23:45

製作: PBS、サーティーン/WNET、ドメスティック・ヴァイオレンス・フィルム

製作/監督/編集: フレデレック・ワイズマン

撮影: ジョン・デイヴィ


内容: フロリダ州の家庭内暴力 (ドメスティック・ヴァイオレンス) の被害者を収容する施設「スプリング」の実状をとらえるドキュメンタリー。


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アカデミー賞でブッシュを罵倒した爆弾発言で、今やドキュメンタリー・メイカーとしては世界最大の著名人になった感のあるマイケル・ムーアよりも30年以上も早く、アメリカにはフレデレック・ワイズマンというその道では知らぬ者のない巨匠がいた。いた、というのは過去形なので、いる、と言い換えなければならない。なんせワイズマンは齢70を超えた現在でも、矍鑠としてまだ定期的に新作を世に送り続けているのだ。


私が初めてワイズマンの名を知ったのは、アメリカに来て通っていた学校の映画史の授業の一環で、デビュー作の「チチカット・フォーリーズ (Titicut Follies)」を見せられた時である。マサチューセッツの精神障害者のための矯正院の内部を執拗に追うこの作品は、実に衝撃的で、これが本物の気違いというものかと圧倒されたことをまだ覚えている。当時のアメリカで上映禁止となったのもむべなるかなだ。


ワイズマン作品は、対象に密着して、飽きず撮影し続けるところに特徴がある。自分の考えを押しつけるというよりは、とにかく徹底的に被写体をカメラに収め、それをそのまま、手を入れずに視聴者の前に提供する。それが何を意味するかという判断は視聴者に委ねられており、ナレーションによって付加情報を付け加えたり、視聴者を誘導しようと試みることすらなく、延々と被写体を撮影し続けるのだ。音楽すらない。


そのため、どうしてもワイズマン作品は長いものになりやすい。昔の作品こそ90分内外だったが、対象に密着するという撮影スタイルが確立した80年頃からどんどん長くなり始め、89年の大作「臨死 (Near Death)」に至っては、6時間というとんでもない長さになってしまった。製作関係者、医療関係者でもなければ、この作品を全部見た者はいないと思われる。近年の作品も、「コメディ・フランセーズ (La Comedie Francaise)」、「パブリック・ハウジング (Public Housing)」、「メイン州ベルファスト (Belfast, Maine)」等、すべて3時間を超えており、つきあうこちらも大変だ。


今回の「ドメスティック・バイオレンス」(D.V.) においてもそれは例外ではない。2年にわたって題材を追いかけた結果、2部構成となって、第1部、第2部別々に発表されたのだが、それでも第1部3時間20分、第2部2時間45分と、やはり計6時間を超える作品になってしまった。公共放送のPBSが製作資金を出しており、TV放送が前提となっているから、ワイズマンも気兼ねせず、必要だと思える長さをまったく手つかずのまま残したようだが、それにしてもドキュメンタリーでこれだけ長いと、いったいどれだけの人間が見ているのか気になってしまう。


「ドメスティック・バイオレンス」は、フロリダで家庭内暴力を受けている人々の駆け込み寺的な救済施設である「スプリング」において、そこで働く人々と、救済を求めてきた人々をとらえる番組である。最初、家庭内暴力を受けている3人の女性を順繰りに追うのだが、案の定、それぞれカメラをほとんど切り替えずに、ノーカットでカメラを回しっぱなしだ。私はタイトル以外、ほとんど何も前知識を持たずにこの番組を見たので、「チチカット・フォーリーズ」で延々と入院者を見せたように、今回もこうやって家庭内暴力にあっている女性たちを延々と見せていくのかと思っていた。


そしたら、冒頭の3人の女性をとらえた後、やっと本題の「スプリング」が登場、そこで働く人々や頼ってくる人々が画面に現れ始める。既に冒頭の3人で、一人頭10分近く長回しで使っているので、この時点で既に番組が始まって30分近い。そこからやっと本題である。彼女らは全部捨てキャラか。これでは作品が長くなるのも当然だ。


それにしても、特に3番目 (2番目だったかな?) に登場する、殴られて血まみれの女性は強烈である。口の横を鋭利な刃物のようなものですっぱりと切られており、現場にいる警官によると、その傷口を通して皮膚の内側の歯が見えるという。確か殊能将之の「ハサミ男」でそういうシチュエイションがあったが、しかしこちらは本当にそれをやられたのだ。私は聞いただけで貧血起こしそうになった。喋ると相当痛いのだろう。段々喋るというよりも、ただうめくという感じになっていく。ああ、もう、見るだけで痛い。


そしてまた、カメラが「スプリング」の中に入ってからもまた、延々と長回しで、家庭内暴力から逃げてきた人々のそれぞれの状況が、本人の口を通して微に入り細を穿って説明される。暴力を受けた本人の口から本人の言葉で事細かに事態が説明されるのだが、しかし、どんなに被害者に対して同情を寄せようとも、被害者の言うことだけを聞き、その暴力をふるった人間の話は一顧だにしない。それでははっきり言って、公平な立場から被写体を写しているとは到底言えない。いくら家庭内暴力の実態をとらえるといっても、暴力をふるう側の人間の言い分を聞くことも必要ではないのか。


しかし、そもそもワイズマンは最初から公平なぞ期していないのだ。ワイズマンが見たいこと、知りたいこと、あるいは視聴者に見せたいことは、暴力を受ける人々の現状であって、暴力をふるう人々ではないのだ。暴力を受ける人々が、自身の口でどう事態を受け止めているか、なぜこういうことになってしまったのかを語らせることだけがワイズマンの興味の中心であり、暴力をふるう側に興味はない。実際、番組では冒頭で逮捕される中年の男以外、あとは最後まで暴力をふるう男性は画面に現れない。彼らは、家庭内暴力という点においては当事者の一人であるが、「ドメスティック・バイオレンス」という作品においては、まったくの部外者なのだ。


こういうワイズマンの作品に対する姿勢というものは、ともすると方法論の立場からの反論を受けそうである。ドキュメンタリーという言葉から我々がすぐ連想するのは、中立な立場から見た公平な視点というものであるので、自分が興味を持った対象だけに密着し、問題の解決案を模索しようとするわけでもないワイズマンの姿勢は、道徳的な立場から見ると、それこそジャーナリズムから叩かれかねない。もしワイズマンが家庭内暴力という主題において、暴力をふるう側の人間に興味を持ったら、徹底的にその人間だけを追いかけ、暴力を受ける側の人間にはまるで注意を払わないだろう。そういう怖さがワイズマン作品にはある。


しかし、それでも「ドメスティック・バイオレンス」をはじめ、ワイズマン作品が最終的にそれなりの評価を得るのは、その対象だけを追うことで、結局はその対象の環境や、なぜそういう風になるのかを見る者に考えさせる力を持っているからだ。限られた時間でありとあらゆる要素を詰め込むよりも、一事を極めることで、逆に視聴者は関係するすべてのことにも思惟をめぐらせるようになる。視聴者にそういう反応を起こさせる力を持つことこそが、ワイズマン作品の最大の特色と言える。


ワイズマンはそれくらい徹底的に対象に執着するために、まだやるかというくらい長時間対象を撮影するし、しかもそれは間にカットを挟まない長いワン・シーン・ワン・ショットで、見る者に緊張を強要する。そしてその対象が喋る内容だけではなく、会話が途切れた時に対象がふと見せる表情や間が、言葉以上に雄弁にその人間を物語るのだ。このような対象に対するアプローチの仕方をとらせたら、現在、世界でワイズマンほどの手練れはいないだろう。あるいは、ドキュメンタリーではないが、「ロゼッタ」のダルデンヌ兄弟が同様の手法で、こちらはフィクション作品を撮っていると言えないこともない。要するに、この撮り方は見る者に緊張を強いる。あるいは、ひょんなことでまったく緊張の糸が切れてしまう。両刃の剣的な方法論なのだ。


実は「ドメスティック・バイオレンス」のオープニングは、警官が妻に暴力をふるう男を逮捕するというシーンから始まるのだが、その冒頭のシーンに関する限り、現在FOXで放送されているリアリティ・ショウ「コップス (Cops)」とまるで同じだ。手持ちカメラが事件現場に駆けつける警官の後を追いかけ回すのだが、私は「ドメスティック・バイオレンス」の冒頭で、逮捕される男がまるで他人事にように事件に反応する様がまるで「コップス」のようなのを見て、思わずにたりとしてしまった。なんとなれば、「コップス」はそういう描写で笑いをとったりする番組だからである。しかし、番組としてはそこで終わる「コップス」の代わりに、まだ本題の入り口にすら立っていない「ドメスティック・バイオレンス」は、これからが本番だ。同じ題材を扱っていながら、あるポイントを終着点と見るか始点と見るかの違いで、まったく異なる番組ができ上がる。まったく面白い。








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ドメスティック・バイオレンス   ★★★

 
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