コロラドの小さな村ドッグヴィルに、ある日、何者からか逃げようとしている女、グレイス (ニコール・キッドマン) が現れる。ドッグヴィルの若いリーダー、トム・エディソンJr. (ポール・ベタニー) はグレイスに、村の者のために働いてくれれば、皆もグレイスが村に留まることに反対するまいと提案する。働き者のグレイスはすぐに村の者の信頼を得るに至るが、しかし、それも束の間、グレイスがいることで村の和が崩れだし、やがてそれはグレイスに対する冷たい仕打ちとなって襲いかかる‥‥
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(注) 結末に触れてます。
一作ごとに論議を醸すラース・フォン・トリアーの新作は、今度は題材もさることながら、演劇の舞台を模したかのような舞台設定が何かと注目を集めた。広いスタジオには10軒ばかりの家が建てられている‥‥ことになっているだけで、その、本来なら家がある部分には、実際には壁も玄関もない。ただ、家や壁の場所を示したラインが引かれ、ベッドや椅子等の家具がいくつか置かれているだけなのだ。つまり、村の端から端までつつ抜けで見渡せる舞台になっており、俳優はその中を、さも壁や窓があるかのように振る舞って動き回る。
この効果については議論百出だろう。最初に見た印象では、村の住民全員の一部始終が常時一度に見渡せることで、全員が一蓮托生的な共同体に属していることを示しているのかとでも思ったが、それはその後、グレイスがレイプされる時に、各々の家庭からそれぞれの住人の肩越しにグレイスがレイプされているところが見えているのに、誰もそのことに気づかないということで否定される。あるいは誰もが気づかないふりをしているだけで、やはりこの村は、全体を覆う抑圧された悪意とでもいうものによって支配されていることを言いたいのか。
あるいは演劇を意識しているのかとも思ったが、舞台ですら、家を作ったらドアもつけるだろう。要するにこの作品ではすべてがシー・スルーであること、そしてシー・スルーであっても、人は自分が見たくないものは、それがたとえ眼前に提示されていようとも見えていないとでもいうことが眼目であるようだ。また、観客席からというただ一つの視点によって構成される演劇に対し、少なくとも「ドッグヴィル」ではカメラは恣意的にあらゆる位置にいることが可能で、やはりこれは、演劇的とも言いかねる。クライマックスで火の手が上がるシーンでは、実際に火を使用するわけではなく、ライティング等の処理だけでそう見えるようにするなど演劇的手法を用いており、完全に演劇的なものを意識していないわけでもないだろうが、やはり舞台とは別物と言える。
実は私は、この作品、ラジオ・ドラマみたいだと思った。何章にも分かれた構成で、いちいち要所要所でジョン・ハートによるナレーションが舞台説明を試みるので (それにしてもハートはいい声をしている)、スクリーンを見ずにナレーションと登場人物の声を聞いているだけでも、ほぼ正確に現在何がスクリーン上で起こっているかを把握できるのだ。実は、私は途中、あまりにもむごい仕打ちを受けるグレイスが可哀想で、スクリーンを正視できなくなってちょっと目を閉じていたりしたのだが、少なくともストーリーを追う上では、まるで問題なかった。
しかしもちろん、この意見も正しくはないのは確かだろう。なんとなれば、登場人物の生の (苦悩の) 感情をスクリーンに定着させることにほとんど生き甲斐を感じているトリアーからクローズ・アップを取り上げてしまったら、ほとんど作品は別物になってしまうだろうからだ。それにしても、映画見に行って目を閉じてちゃ世話ない。昔、ホラー映画を見に行って怖くてスクリーンが見れずに、隣りに座っていた友人に、今、何が起こっているかを常に訊いて確認して周りの人間から睨まれたという知人がいたが、私も似たようなことをしている。
結局、今回の撮影手法における最大の特徴は、すべてがスタジオ内で撮影されていることにある。「奇跡の海」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」におけるロケーション撮影、特に「奇跡の海」における荒々しい北方の海や地表をとらえた背景の描写による雰囲気の醸成に頼ることなく、基本的に俳優の演技だけですべての話を展開させているわけだ。それだけを、どうだ見てみろとばかりに提出するトリアーのふてぶてしさは、ほとんど傲岸さと紙一重のもので、その失敗を怖れない実験精神には惜しみない称賛をおくるものであるが、これは見る者を選ぶだろうなと思わせる。
それにしてもトリアーの人間性悪説は、新作を撮るごとにますます磨きがかかってくる。「奇跡の海」でも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でも、主人公は無垢の女性で、それがあらぬ疑いをかけられ、おとしめられ、これでもかこれでもかとばかり痛めつけられる。基本的に主人公の周りにいる人間は、少なくとも最初、悪い人間ではないのだが、それがちょっとした誤った選択や環境のせいで、主人公に対して悪意を見せるようになる。もしかしたら自分で考えることをせず、ただ環境に流されるというそのことが性悪ということなのかもしれないが、いずれにしても善良なはずの村人のたがが外れ始め、それが加速していく凄まじさは、トリアー以外では他のどんな作品でもほとんど見ることはできない。前半で善良な一市民としての一面も見せられているので、なおのことその反動は大きい。とにかく話が進んで主人公が不幸のどん底に陥ってくると、痛ましくてスクリーンを正視できなくなってくるのだ。
少なくとも「奇跡の海」では、主人公のエミリー・ワトソンをいたわってやる夫 (しかしその夫を演じていたステラン・サースガードが、今回はグレイスを痛めつける側に回るのだ) や親友がいたし、「ダンサー」でもビョークの力になろうとするカトリーヌ・ドヌーヴがいた。しかし今回に至っては、最初、唯一キッドマン演じるグレイスの味方と見えたトムも、最後の方では保身に走ろうとする。これではグレイスも浮かばれまい。
私は美形の女優が虐げられたりするのを見るのは映画の醍醐味の一つと思っているのだが、いくらなんでもこれはあんまりだ。グレイスは肉体的にも精神的にも徹底的に痛めつけられ、最後の方では逃げ出すことができないよう、首に鉄輪をはめられるだけでなく、鈴が鳴っていつでもどこにいるかわかるようにされる。これではベッドで寝てても、寝返りも打てまい。あるいは寝返りは打てても、自分が立てる鈴の音によって、眠りを妨げられるに違いない。さらに車輪をくくりつけられ、どこに行くにもそれをひっぱっていかなければならないのだ。
つまり、グレイスは、まったく家畜同然の扱い、いや、それ以下の仕打ちに耐え忍ばなければならない。ここでのキッドマンに較べれば、「モンスター」におけるシャーリーズ・セロンが陥った運命は、子供の遊びのように見える。しかしそれでも一つだけ言わせてもらうと、鈴と鉄輪をつけても、やはり美人は美人だ。薄幸の美人なんて言葉が難なく思い起こされる。キッドマンは近年、「ムーラン・ルージュ」、「めぐりあう時間たち」、「白いカラス (The Human Stain)」と、不幸な目に遭う役柄の方が多く、そういう役によって演技を磨いてきたという経緯はあるが、「ドッグヴィル」はその頂点を極めている。
一方、トリアー作品で不幸に陥る主人公の女性は、その不幸を、実はあまり主人公自身が不幸と感じていない。「奇跡の海」では、ワトソンは信仰と自分の夫のために自ら進んでそういう境地に陥るのであり、「ダンサー」でのビョークも、やはり自分の信ずるもののために殉じている点で、自分の使命を全うしたと感じていたかもしれない。その、ともすれば独りよがりに見えないこともない主人公の自己満足、自己陶酔は、もちろんトリアーのそれと同一のものであるはずであり、そのため、近年、トリアーは、「わざとらしい」とか、「あざとい」とかいう形容詞で語られることも多くなってしまった。
そのためか、「ドッグヴィル」に至ると、最初、ほとんど自我を抹殺したように村の人のために献身的に働いていたキッドマンが、最後には自分のしたことを間違っていたと感じ、あるいは後悔して、村の人間に報復しようとする。つまり、これまでは前しか見ていなかった主人公が、自分の行いに自分で疑問を提出するようになる。逆に言えば、その分キッドマンはワトソンよりもビョークよりも不幸だったと言える。自分が信じていたことが間違いだったことに気づいてしまったからだ。また、それはトリアーの考え方の変化とも一致しているはずで、今後、報復や復讐や殺人という新しいタームが見られるようになったトリアーがどう変化していくか、それはそれでまた興味をそそられる。もしかしたらついにトリアーも神を信じられなくなってきたのかもしれない。ただし、できれば次の作品は、せめて2時間ちょいくらいでなんとかまとめてもらえるととてもありがたいのだが。