Devil


デヴィル  (2010年9月)

刑事のボウデン (クリス・メッシーナ) は高層ビルからの男の転落死の調査に派遣される。ボウデンが調査を始めたのと時を同じくして、同じビルにそれぞれの用で訪れた5人の男女がエレヴェイタ内に閉じ込められるという事件が起きる。臨時のセキュリティのベン (ボキーム・ウッドバイン)、若い女性のサラ (ボヤナ・ノヴァコヴィッチ)、セールスマンのヴィンス (ジェフリー・アレンド)、初老の女性 (ジェニー・オヘア)、メカニックのトニー (ローガン・マーシャル-グリーン) で、最初灯りの消えた庫内でサラが何者かに斬りつけられ、疑われたヴィンスは次の停電時に首を切られて死亡していた。そして老女が首を吊り、ベンもまた死ぬ。犯人はサラなのかそれともトニーなのか、二人はお互いに相手のせいにするが‥‥


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実はこの作品、オリジナル・アイディアおよびプロデュースはM. ナイト・シャマランだ。しかし基本的に舞台が閉じられたエレヴェイタの中であるという、派手な場面のないほとんど室内劇に近い舞台設定であること、およびシャマランが既に「エアベンダー (The Last Airbender)」製作に携わっていたために、別の者に演出が任されたものだと思う。


実際、発想としてはかなり単純で、エレヴェイタに乗り合わせた見ず知らずの者たちが次々に殺されていくというものだ。誰が誰を殺そうとしているのか、それはなぜか。自分も殺される運命にあるのか、しかしなんのために? という、ほとんどホラーというよりは心理サスペンスだ。


閉じられた狭い空間でのホラー・サスペンスという点で思い出すのは、近年ではスティーヴン・キング作品を映像化した「1408」だ。あれはホテルの一室で主人公に扮したジョン・キューザックが次々と不思議な場面に遭遇するという話で、特に人がばたばたと死んでいくというものではなかったが、とにかく閉じられた密室内で事件が起きるという構造が似ている。


元々私はシャマランとキングはその語り口が非常によく似ていると思っているので、「デヴィル」を見ていて「1408」を思い出したのも、自分自身で納得してしまう。しかしやはり、両者で特に共通している最大の類似点は、金と時間をかける映画にしては、場所がほとんど動かないことから来る、多少なりともチープな印象を見る者に与えてしまうことにあると言える。


もっとも製作者だってそのことは重々承知しているから、そういう印象を与えないように、例えば「デヴィル」ではビルの外での話とか屋上、地下、エレヴェイタ・シャフト内でのアクションを絡めて飽きさせないようにしている。しかし、メインとなるアクションが2m四方のエレヴェイタ内であるという事実は動かせない。その狭い空間で逃げようがないということこそが話のポイントなのだ。


その点、実はこの話は実際に映像としてエレヴェイタ内を見せることなく、描写で読む者の想像を膨らませて怖がらせることのできる小説向きと言えないこともない。少なくとも小説なら、読んでいてチープという印象を与えることはないだろう。一方で、エレヴェイタ内の灯りが消え、また点いた時、そこに何が起きているかを一瞬でわからせ驚かすのは、映像の方が効果的だ。一長一短だ。


冒頭の、最初にビルから人が落ちて死ぬというシーンでは、ビル内部で掃除をしているおっさんの後ろに人が落ちる。しかしビル内でヘッドフォンをして音楽を聴きながら掃除機をかけているおじさんは、ものすごく大きな音がしたはずなのにそれに気がつかない。こういう描写は、いくら書き込もうとも小説より一瞬で状況を把握させる映画の方が効果的で、これは確かにシャマランだと思う。


エレヴェイタ内には5人の人物が閉じ込められるが、実は彼らはそれぞれに後ろ暗いことがあるということがおいおい明らかにされる。彼らは偶然ではなく、集まるべくしてそこに集まったのであって、ある者 -- デヴィルの意志がそこに働いていた。彼らはその罪を断罪される運命にあったのだ。それだけではなく、この事件を調査するために差し向けられた刑事までエレヴェイタに閉じ込められた者の一人と関係があった‥‥


出演は比較的新人、というか特に名が売れているわけではない者を揃えている。ボウデン刑事に扮するクリス・メッシーナは、もうちょっと華があればディラン・マクダーモット並みに活躍できそうな気もするし、トニーに扮するローガン・マーシャル-グリーンも、タイミングさえ合えばサム・ワーシントンのような役がやれそうだと思う。


ボキーム・ウッドバインはTNTの「セイヴィング・グレイス (Saving Grace)」で見たし、ボヤナ・ノヴァコヴィッチは「エッジ・オブ・ダークネス (Edge of Darkness)」でメル・ギブソンの娘を演じていた。ジェフリー・アレンドは「(500) 日のサマー ((500) Days of Summer)」に出ていた。ノヴァコヴィッやアレンドはそれらの作品では善良な一市民に見えたのに、「デヴィル」ではちゃんと後ろ暗い人物に見える。後半ちょっと顔を出すキャロライン・ダヴァナスは久しぶり。演出はジョン・ドウドルで、「クアランティン (Quarantine)」に続いて閉じ込められる人々の話が続いた。


シャマランがこの作品を演出していない理由としては、既にハリウッドの大型作品の演出家として名を成したシャマランには規模が小さ過ぎたことが一つと、それにタイトルにもあるように、この作品が悪魔、デヴィルの存在を認めることで成り立っているこことも関係があるように思われる。


インド生まれのシャマランは、かなりの確率でキリスト教徒ではないだろう。ヒンドゥー教かイスラム教である確率の方が高い。あるいはインテリのインド系ということで無宗教か。いずれにしてもそのシャマランが、デヴィルの存在を認めることから始まる作品を撮ることは、本人としても周りの反応としてもかなり躊躇われるものがあったのではと想像する。シャマラン本人も次の作品で何を撮るかかなり模索中という気がする。








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