放送局: NBC

プレミア放送日: 7/30/2004 (Fri) 20:00-22:00

製作: アーツ・エンジン、ビッグ・マウス・プロダクションズ

製作: ダラス・ブレナン、ケイティ・チェヴィニー

監督: ケイティ・チェヴィニー、カースティン・ジョンソン


内容: 死刑制度を検証するドキュメンタリー。


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「デッドライン」が放送されたNBCの金曜夜8時-10時枠は、現在、ニューズ・マガジンの「デイトライン (Dateline)」が編成されている。元々昨シーズンは8時台にアリシア・シルヴァーストーン主演の「ミス・マッチ (Miss Match)」、9時台が「デイトライン」が編成されていたのだが、「ミス・マッチ」が早々とキャンセルされたために、その後、だいたい「デイトライン」が出張ってきて8時から2時間枠で放送されることが多い。


「デイトライン」は政治、社会等の時事問題を扱ういわゆる報道番組で、こちらではこの種の番組は総じてニューズ・マガジンと呼ばれる。この種の番組としては、最古参のCBSの「60ミニッツ (60 Minutes)」が最もよく知られており、NBCの「デイトライン」とABCの「20/20」がそれに続く。わりと人気のあるジャンルであり、その他にCBSの場合だと「60ミニッツII」、「48アウワーズ (48 Hours)」、ABCだと「プライムタイム・ライヴ (Primetime Live)」なんて同工異曲の番組があり、それなりに視聴者を獲得している。NBCだって毎週少なくとも2コマを使って「デイトライン」を編成している。


この種のニューズ・マガジンの最大の利点は、編成される曜日と時間を選ばないことにある。何曜日の何時に編成されようと、いつもそれなりの成績を残す。人々が気軽に、ちょっと最近の気になるニューズの解説でも見るかという感覚で番組を見ているからだ。そのため、新しく投入した新番組の成績が振るわず、数回放送されただけですぐキャンセルされるような羽目に陥った場合、その後番組として、これらのニューズ・マガジンが一時的に編成される場合が多い。そういうわけで、多い時は週何時間もニューズ・マガジンばかりがラインナップされることもある。


昨年の春先、マイケル・ジャクソンの私生活を綴った「リヴィング・ウィズ・マイケル・ジャクソン」は、特番として「20/20」枠で放送され、すぐに同じくABCの「プライムタイム・ライヴ」とNBCの「デイトライン」が同様の特番で後に続いた。このような機動性、柔軟性が高いことも、ニューズ・マガジンがネットワークから重宝されている理由でもある。


今回「デイトライン」枠で放送された「デッドライン」の場合、「20/20」のマイケル特番の時と状況が似ている。共に自社番組ではなく、ネットワークとは無関係の個人によって製作された作品を、ネットワークが金を出して放映権を手に入れ、放送するという構造が一緒なのだ。


これは、実を言うと、ほとんど稀な出来事である。というのも、ネットワークは自社内にニューズ専門の部署を抱えており、基本的にほとんどのテーマの取材はそこで事足りるからだ。事足りるどころか、アメリカのネットワークのニューズ部門は、並みの新聞社やワイヤー・サーヴィスでは太刀打ちできないくらいの取材力、情報収集能力がある。だからこそ様々なスクープやスキャンダルが、ネットワーク発で起こるのだ。つまり、ネットワークのニューズ部門はほとんど外部に番組製作を発注しない。


それなのに、ネットワークが外部製作番組である「リヴィング・ウィズ・マイケル・ジャクソン」や今回の「デッドライン」をそのままほとんど手を入れずに放送したということは、それだけで注目される大きな理由になる。天下のネットワークが、自社部門が製作した時事関係の番組より、外部の誰かが製作した番組の方ができがよいことを自ら認めたことになるからだ。


マイケルの場合は、ある程度はしょうがなかったとも言える。機が熟した時には、マーティン・バシアという一人のジャーナリストが、マイケルとそれこそ寝起きを共にして密着して完成させた作品ができ上がっており、たとえその作品の視座が歪んでいようとも、それ以上マイケルに近寄って撮影できる手段というのは存在しなかった。ネットワークは、その作品の放映権を買うしかなかったのである。それ以外の、あとから慌てて製作したマイケル関係の番組のできは、やはり大したことはなかった。


しかし、今回の「デッドライン」は、状況がちょっと違う。ネットワーク、ここではNBCは、「デッドライン」がテーマとしている死刑制度について、やろうと思えば自分たちの視点から死刑制度についての番組を新たに製作できた。その気になれば、かなり突っ込んだ、程度の高い番組を製作できただろう。それをやらなかったのは、すなわち、NBCが「デッドライン」の質の高さを認め、これに比する番組を製作するのは難しいと考えたからに他ならない。


「デッドライン」は、今年のインディ映画の殿堂、サンダンス映画祭で初公開された。近年、マイケル・ムーアの諸作品や「スペルバウンド」「WATARIDORI」「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」等のヒットにより、ドキュメンタリーというジャンルにもわりと光が当たるようになってはきたが、それでもいまだにそれらの一部の作品を除いては、興行性という意味ではそれほど儲かる分野ではない。「デッドライン」製作/監督のケイティ・チェヴィニーも、作品ができ上がったのはいいが、しかし、それからどうなるか、まるで展望はなかったという。


そしたら、そのサンダンス映画祭で、上映後に彼女らに近寄ってきて、すごく作品を気に入ったと言って名刺を置いていった人物がいた。それが現NBCユニバーサル会長のロバート・ライトだった。最初チェヴィニーらは、それが何を意味するのかほとんど把握してなかったという。それが翌日、またライトが現れ、「デッドライン」をNBCで放送したいと言われて、初めて事の重大さに気づいたそうだ。アメリカに住んでいる業界関係者なら、ネットワークのニューズ・マガジンで自分たちの製作したドキュメンタリーが放送されることの意義をわからないわけはなく、また、だからこそ最初、ネットワーク関係者が自分たちに接触してきたことの理由を図りかねたのだ。普通ならそんなこと、あるわけがない。


もちろん、チェヴィニーらはこの申し出を承諾する。ほっておけば、たぶん、映画祭終了後そのままになって、あとはヴィデオになるのが関の山、全米でいったい何千人が見てくれることやらという寒々しい予測しかできなかった時に、ネットワークで放送されるなら、潜在的視聴者数は何千万人単位、これまでの「デイトライン」の平均視聴率から見て、少なくとも500万人の視聴者は固い (実際には発表された視聴者数は550万人だった。) その上放送権という名のバカにならない権利金も手元に入ってくる (この金額は公表されていない。) そしてチェヴィニーは、2時間という「デイトライン」枠でホストのストーン・フィリップスが案内を述べる時間を挿入するために多少のトリミングを施し、そして「デッドライン」は無事放送されたのだった。


「デッドライン」は、死刑制度の是非に揺れるアメリカ、ここでは端的に言ってイリノイ州の死刑制度に目を向け、その是非を問う作品である。そもそもの発端は、イリノイのノースウエスタン大学のジャーナリズム専攻の学生らが、死刑制度を調査したことに遡る。単に授業の一環として始まったはずのこのリサーチが、現実の死刑囚や関係者へのインタヴュウや事件の経緯の見直しによって、ずさんな警察の調査や検察の怠慢によって罪が決定されたことが明るみに出される。単に罪に問われただけでなく、死刑という極刑の判決を受けてしまった明らかに冤罪の死刑囚の数が、一人や二人ではきかないことが明らかになってしまうのだ。


イリノイ州のジョージ・ライアン知事は、元々は犯罪には厳とした態度で挑む、死刑制度擁護者として知られていた。一見、ボリス・エリツィンを思い起こさせる容貌の持ち主だ。ライアン知事はちょうどそういう火種が持ち上がった頃、自分自身、汚職疑惑の真っ只中に立たされており、マスコミから集中砲火を浴びていた。そのライアン知事が、いきなり、これまでの自分の立場を180°翻し、改めて死刑囚を再審理すると発表したのである。


ライアン知事のこの豹変ぶりを、単に世論のご機嫌とり、話題稼ぎのスタントとして見るのはやさしい。しかし、そのために、実際に生活基盤が根こそぎ揺らいだ人々も大勢いた。まずその筆頭が、渦中の死刑囚であるのは当然だ。もう、ほとんど諦めていたものが再審理され、場合によっては無罪放免、あるいは無期への減刑が考えられる。いつ来るか、今日か明日かと、毎日その日の声がかかるのをびくびくしながら待っている死刑囚であるのと、たとえ刑務所から出られる可能性が小さいとはいえ、いきなりその生を断ち切られることはない無期囚であるのとでは、それこそ雲泥の差がある。


そして2002年末からこれらの死刑囚167人の再審理が始まると、当然のことながら事態は紛糾する。ある者はほとんど拷問に近い尋問を受けた挙げ句、身に覚えのない犯罪の告白を強要されたと主張する。スパニッシュの彼はほとんど英語を喋れず、彼を通訳し、その記録を書きとめたのは、他ならぬ尋問に当たった警官であり、その調書が証拠として提出されたのだ。


そういう灰色の疑惑が濃い事件とは別に、人道上、死刑制度に反対を唱える者たちもいる。ある男は罪のない夫婦を撃ち殺し、死んでいる妻をレイプして死刑の宣告を受けた。そういう、自分の罪を大勢において認めている者にも、再審理を受ける権利が与えられる。おさまらないのは遺族だろう。なんで今頃わざわざ、刑の確定した者を再審理する必要がある? しかもこちらは自分で罪を認めているのだ。なぜまた今頃、忘れかけていた傷を思い出させる? 法廷で裁判官に向かって右側に陣取る遺族たち。裁判官が、被告に恩赦を与えることに反対の者はという問いかけに、全員が一斉に起立する。我々の家族はこの血も涙もない男によって無残にも殺されたのだ。なんでこういうやつに慈悲を与える必要がある?


被告の関係者は、彼の幼い頃の環境がよくなかったことを述べる。私はあなたたちの許しを乞おうとは思わない。しかし、被告もまた被害者だったのだ。この法廷にいる者は皆被害者なのだ。これに対してある遺族は声を詰まらせながらも宣言する。すまないが私はこの男を許すことはできない。


すべての再審理で多かれ少なかれこのような生の感情がやりとりされ、関係者は全員感情的に追い詰められる。おしなべて彼らは痛々しく、果たしてこの再審が本当に正しいことなのか、見ていてわからなくなる。たとえこの結果がどうなろうと、関係者の全員が不幸のままなんじゃないのかという疑問が頭をよぎる。特に被害者の遺族にとっては今回の再審は、人道上という大義名分の名の元になされた、新たな拷問に等しいだろう。


しかしその一方で、確かに最初の裁判がもし誤審だったとしたら、無実の者を死刑囚にしてしまっていたらという疑惑は拭いがたいものがある。もしこれをほっておいたら、これこそ贖いがたい罪であるということもまた事実だろう。しかしそのために、また新たに心に傷を負う者もいるのだ。ライアン知事は、任期終了2日前に決定を下す。再審をした167人の死刑囚全員に、死刑から終身刑に減刑するという恩赦を与えたのだ。この決定が、人々に喜びよりも苦痛の方を多くもたらさなかったという保証はどこにもない。


死刑制度には、いや、あらゆる裁判には、どんなにわずかにせよ誤審の可能性が常にある。だからこそ特に死刑という極刑の場合、間違った場合には取り返しがつかないため、それよりはいっそ廃止した方がいいという意見には説得力がある。しかし、そういう正論も、悲しみに打ちひしがれる遺族の前には無力だ。


私個人の意見を述べさせてもらうと、死刑を執行するしないはともかく、制度としての死刑は残しておいた方がいいのではないかと思う。たとえ机上の空論にしても、ある人間が誰かの命を奪ったら、その命を奪った者の命で償うという単純論は、単純であるが故に安心できる。人は500円盗んだら500円返さなければならないのだし、命を盗んだ場合だけその罪が減刑されるというのは、それこそ矛盾しているような気持ちになる。小さな罪よりも大きな罪を犯した方が罪が軽くなるというのは、それこそチャップリンが「独裁者」で弾劾していたことじゃないのか? 殺人を犯したからその男が必ずしも死ななければならないといっているのではない。しかし、原告と被告の命は原理的に等しくしておかなければならないと言っているのだ。


もしかしたらこういう意見こそが最もナイーヴなのかもしれないが、私はそう思う。番組の中で、ヴェテランの看守が、死刑をすればいいというものではないが、本当の本当に心の底から腐っている、矯正のしようのない者には死刑しかないと思うという意見を口にする。現場にいて実際に数多の死刑執行を見てきた者の意見なだけに重みがあるが、私も同感だ。完全悪が発生する可能性は常にあり、それが進化の避けられない道だとしたら、やはりその時はその悪は排除するしかないんじゃないだろうか。


因みにアメリカの死刑制度は、1972年に一度廃止されたが、76年にまた復活している。もちろん州によって死刑を認める州も認めない州もあるが、要するに最高裁の見解はそうだ。それから徐々に死刑を執行される囚人の数は増え続けている。統計によると、テキサス州知事時代のジョージ・W・ブッシュが、152人の死刑囚の執行許可を出した、史上最も電気椅子送り (あるいは薬物注射?) にした死刑囚の数が多い知事だそうだ。なるほどねえ、彼のものの考え方やその支持基盤というものが漠然とながらわかる。私は、原理的に死刑制度は維持しておいた方がいいと思っているが、使い方を誤れば、当然取り返しのつかない事態も起こる。この男を見ていると、やはり死刑制度廃止の方に気持ちが傾きかけたりもするのだった。彼は亡霊の恨みつらみで肩が凝らなくていいのかな。





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デッドライン   ★★★

 
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