Daredevil
デアデビル (2003年3月)
Daredevil
デアデビル (2003年3月)
「デアデビル」は、マーヴェルの人気アメコミの映像化である。とはいえ私は、「X-メン」や「スパイダーマン」ならまだしも、さすがにこの辺まで来ると見たことも聞いたこともなく、前知識はまったく持ってなかった。私はマンガ世代で、ガキの頃はマンガ雑誌に熱中したものだが、それでもアメコミって、はっきり言ってどれもこれも同じに見える。とはいえこの映画、既に公開して一と月になるのにまだしぶとく興行成績の上位5位内に留まっている。人々は定期的にスーパーヒーローを必要としているようだ。
ボクサー崩れの父を持つ少年マットは、事故で失明、父も仕組まれた八百長に我慢できず、相手をKOしてしまったため、ギャングのボス、キングピン (マイケル・クラーク・ダンカン) に殺されてしまう。しかしマットは視覚を失った代わりに聴覚が発達し、音を聞き分けることによって、常人と同じように周りを知覚することができるようになった。成長したマット (ベン・アフレック) は、昼は弁護士、夜は仮面を被ったスーパーヒーロー、デアデビルとして、悪者退治に立ち上がる‥‥
「デアデビル」を見て最も強く感じるのが、まあ、原作がアメコミであるから当然といえば当然なのだが、まるでマンガみたい、ということである。目の見えない主人公が昼は弁護士、夜はスーパーヒーローとなって活躍するわけだが、こういう設定って、既にどこかで読んだことがあるような気がする。主人公の設定だけでなく、彼に絡むもう一方の女性スーパーヒーローの登場、マットの素性を知る唯一の味方のカソリックの神父、コミック・リリーフを受け持つ同僚、マットを執拗に追う新聞記者、等々、まるでこれまでに見たスーパーヒーローものをすべていっしょくたにしてごった煮にしているみたいだ。
製作はマーヴェルのアヴィ・アラドで、ずっと自社キャラクターを元にした映画をプロデュースしているが、「X-メン」の成功で波に乗ったようで、昨年の「スパイダーマン」は、その流れの一種の頂点だったと言える。さらに今後、マーヴェルのキャラクターを利用したこの手のアクション物を続々と製作することになっている。特に今夏公開予定のアン・リー監督の「ハルク」は、この種の映画としては、今年最大の注目作品だ。ただし、それ以外にも予定されている「ファンタスティック4」辺りになると、私には何のことやらさっぱり。粗製乱造に陥らなければいいが。
実際、「デアデビル」は「スパイダーマン」がマーヴェルで最大のヒットとなり、これまでの記録をすべて塗り替えたことから、この機を逃すまいとしたマーヴェルの後押しによっていきなり映画化が決まったもので、Goサインが出てから製作、公開されるまで1年かかっていない。これはこの種のCG処理に時間がかかるアクションものとしては、例外的に短い時間だ。「X-メン」と「X-メン2」の間は3年近く開いているし、「ハルク」だって2年かかっている。「デアデビル」スタッフは寝る間もなく働かせられたことだろう。
それにしてもアフレックは、「トータル・フィアーズ」でも既にその傾向はあったが、ついにスーパーヒーローになっちまったし、盟友のマット・デイモンも「ボーン・アイデンティティ」で不死身の暗殺者と、この二人、どんどん活躍の場が現実離れしてきている。どちらかといえば体格のいいアフレックの方が、スーパーヒーロー向きだとは思うが。顔からしてマーヴェルのコミックスに出てくるスーパーヒーローっぽいし、体格もいいし、マスク被ってりゃ微妙な演技なんか気にかけなくてもいいし。
ヒロインのエレクトラに扮するのは、ABCの「エイリアス (Alias)」に主演中のジェニファー・ガーナー。WBが放送していた「フェリシティの青春」にゲスト出演したガーナーをいたく気に入ったプロデューサーのJ. J. エイブラムスが「エイリアス」主演に抜擢したもので、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」にも出ていたし、今では売れっ子だ。そういえば、実は彼女は端役ではあったが、「パール・ハーバー」で既にアフレックと共演している。今回は準主演と言える役だし、既に彼女のエレクトラを主演に次のスーパーヒーローものの映画が企画中だそうだ。悪役では、暗黒街のボス、キングピンにマイケル・クラーク・ダンカンが扮している他、先週見た「リクルート」に主演していたコリン・ファレルがブルズアイ役で出ている。冗談みたいなマンガチックな役だが、そういうのも真面目にやるところが業界人にも受けているからこそ、引く手数多の売れっ子なんだろう。
監督は脚本家出身で、演出はこれが「サイモン・バーチ」に次いで2作目となるマーク・スティーヴン・ジョンソン。可もなく不可もなくといった感じでまとめている。とはいえ、マットが視覚の代わりにそれに勝るとも劣らない鋭敏な聴覚を手に入れ、喜び勇んで街中 (ビルの屋上) を跳び回るシーンは、「スパイダーマン」で自分の力をものにしつつあるスパイダーマンことトビー・マグワイアが、クモの巣を手首から撒き散らしながらビルからビルへ飛び回ったシーンとまるで瓜二つで、演出の仕方からCGの使い方までそっくりで、まるで新味がない。それよりも聴覚でものの形態を知覚するという特殊な能力を身につけたマットが、降りかかる雨が肌に当たる音を聞いてエレクトラの顔を理解するというシーンこそが、「デアデビル」で最も印象的なシーンだろう。
アメリカのスーパーヒーローが日本のスーパーヒーローと最も異なっている点は、アメリカのスーパーヒーローは、まず、間違いなく筋肉ムキムキのヒーローとして設定されるところにある。もちろん日本のスーパーヒーローだってムキムキ型は多いが、それでもだいたいは成長の過程でそうなるのであって、基本的にはそれほどヒーロー自身の体形/体力に多くを負うわけではない。あるいはヒーロー自身はほぼ普通の人間であるのだが、ロボットやら何やらを操る能力に長けているとか、あるいは超能力を使うため、物理的な筋肉に頼る必要がないとか、もっと端的に、元が何であれ変身しちゃうから関係ないとか、そういう設定が多い。あるいは物理的な法則なんかまるっきり無視して、外見はなよなよでも怒ると超人並みの腕力を発揮するなんて設定を平気でとるものもある。やはり物理的な力ではガイジンには勝てないという無意識の認識があるから、そういう設定をとるのだろうか。
「スパイダーマン」が異質かつ新鮮だったのは、そういうムキムキヒーロー全盛のアメコミにあって、それをなよなよのがりがり君として造型したところにあったのだが、それだってやっぱり、スパイダーマン化したピーターは変身してそれなりの筋肉を身につけたし、やはり土台がしっかりしていないとヒーローにはなれないというのは、アメリカのスーパーヒーローの根本的な思想である。しかし、彼らは扮装はしても変身するわけではない生身の人間だから、怪我をしたり敵にやられたりもするし、時には異性に恋したりもする。ヒーローがいったんは窮地に追い込まれるのは物語を語る上で欠かせないからそれは当然なのだが、「デアデビル」では、マットがヒロインのエレクトロとベッド・インするシーンまであるのだ。もちろんスーパーヒーローとはいえ、普通に生活している時の彼らは生身の人間なのだから、セックスしても別に異常でもなんでもないのだが、いずれにしても、「スパイダーマン」といい、「デアデビル」といい、アメリカのスーパーヒーローもついに悩みだしたかという気はしないでもない。
また、アメリカのスーパーヒーローの常道として、デアデビルは自分のコスチュームを管理しているし、替えのマスクもいくつも持っている。ガキの頃に日本のスーパーヒーローに親しんだ私がアメコミのスーパーヒーローで最も驚いたのが、「バットマン」が自分のワードローブを持っていたという事実だった。スーパーヒーローが外見なんか気にしてちゃいかんと思ったものだが、でも、結局その人物かスーパーヒーローかどうかは外見でしかわからないわけだから、この点では見かけも気にするアメリカン・ヒーローの方が正しい。私もどうやらアメコミのヒーローに段々感化されてきているようだ。