Collateral   コラテラル  (2004年8月)

キャブのドライヴァー、マックス (ジェイミー・フォックス) は、ある夜、ヴィンセント (トム・クルーズ) と名乗る男を拾う。ヴィンセントは夜のうちに片しておかなければならない仕事をいくつも抱えており、今晩一夜貸し切りでつき合ってもらったら600ドル出そうと申し出る。しかしそうやって送り届けた最初の目的地で、ヴィンセントを待っているマックスのキャブの上に、撃たれた男が落ちてくる。実はヴィンセントは殺し屋で、一晩のうちに何人も片をつける必要があったのだ。ヴィンセントはマックスを脅し、仕事の続行を強要する‥‥


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マイケル・マンの新作は、アメリカを代表するスター、トム・クルーズが血も涙もないヒットマンに扮するサスペンス・アクション。共演はジェイミー・フォックスで、しがないキャブ・ドライヴァーだが、真面目に毎日の務めに勤しみ、将来の夢はリムジン会社を経営することという男マックスに扮している。そのマックスのキャブに偶然ヒットマンのヴィンセント (クルーズ) が乗り込んできたことから、二人の人生が交錯し、事態は二転三転する。


男の世界を描かせると右に出る者のないマイケル・マンのこととて、「コラテラル」も一方はヒットマン、一方はキャブ・ドライヴァーというまったく関係のない職業に就いている二人の男が登場するのだが、当然描くのはプロフェッショナルの男の世界だ。ヴィンセントは請け負った仕事に私情を差し挟むことなく、ただ機械のように相手を消す。マックスも、A地点からB地点に行くのに、どのルートを通れば最も早く目的地に着き、何分くらいかかるかを誰よりもよく知っている。しかしマックスの仕事には、邪魔者を消すという条項は含まれていない。したがって、ヴィンセントの一夜限りの専属ドライヴァーとして働くはずだったマックスがヴィンセントの仕事の内容を知った時、そこにドラマが生まれる。


マンの演出はアクションがエモーションと直結しているところが最大の特徴であり、この辺が凡百の演出家では足元にも及ばない。つまりアクション・シーンが、ただアクション・シーンを見せるためだけの方便としてではなく、キャラクターのものの考え方と一致しており、アクションを描くことがキャラクターを描くことと同一の手段になっている。そのため、キャラクターがアクションを起こせば起こすほど、それは同時にキャラクターを描き込むことと同じ意味を持ち、よりドラマ性が深まることになる。見せ場を作るだけのために、わざわざドンパチ・シーンやカー・アクションを挿入しているわけではないのだ。今回もマンのそういう演出は健在で、本当に、プロの男臭い世界を描かせたら、マンに勝る監督はいない。


特に今回は、たぶんキャリアで初めて悪役に挑戦するクルーズと、それを受けて立つフォックスの二人共が非常に好演している。クルーズはますます芸幅を広げているし、一方のフォックスも、意外なところからデンゼル・ワシントンの後継者が出てきたという感じだ。クライマックスのテンションの上がり方はもろ「ヒート」で、要するに二人は、「ヒート」のロバート・デニーロとアル・パチーノを再現しているかの如くだ。


「ヒート」では正義が悪を追いつめ、今回は悪が正義を追いつめるという関係の逆転があるが、実は、マンの世界にとってはそれは副次的なことであって、モラル的ないい悪いは、実はあまり意味がない。「ヒート」のクライマックスでは、観客はデニーロとパチーノのどちらかに肩入れすることはなくなり、ただただそのエモーションとアクションに魅入られてスクリーンを凝視するだけになるが、「コラテラル」のラストも、それに近いものがある。観客は、正義の方のフォックスを応援するのではなく、自分の信ずるもののために戦うプロフェッショナルの男の火花散る戦いにただ魅せられるのだ。


とはいえ、「コラテラル」はあのクルーズが初めての悪役に挑戦、みたいな感じで宣伝されているのだが、はっきり言ってクルーズ演じるヴィンセントは、プロのヒットマンで罪のない者を殺すかもしれないが、100%の悪役ではない。彼は彼の行動倫理に従って、どのようにすれば最も効率よく仕事を完遂できるかだけを考えて行動しているのであり、その点では、むしろプロとして称賛さるべき存在と言える。同じ暗殺者でも、悩んだり困ったりしている「ボーン・スプレマシー」のボーンとは、プロとしての自覚が違う。まあ、彼は記憶をなくして自分を暗殺者だとは思っていなかったわけだから、較べるのはちと無理があるかもしれないが。


それに「コラテラル」が破綻なく物語を語っているかというと、疑問点がないわけではない。特にプロの中のプロであるヒットマンが、果たして請け負った仕事を遂行するために、自分で車を調達することなく、行き当たりばったりで出会ったキャブのドライヴァーに車の運転を頼むかという、物語の根幹の成り立ちに関わる最大の問題がある。その設定の不自然さを解消するために、複数の仕事を一夜のうちに完遂しなければならず、準備に時間がかけられなかったというタイム・リミットを設けてそれらしくしてあるのだが、本当のプロなら、時間がなければないほど、限られた時間の中で遂行しなければならない仕事に不確定要素を持ち込まないために、ここはよけい第三者が介在することを抑えようとするだろう。


もしどうしても無理だと思うなら、最初からそういう仕事は引き受けないはずだ。それがプロというものだろう。つまり、どう考えてもこの設定には無理がある。瑕瑾というには、よく考えればすごくでかいミスだと思うが、しかし、そうしないとヴィンセントとマックスは死ぬまで一生出会えないだろうから、ここはちょっと苦しいが、この作品を目一杯楽しむためには、そこの部分には目をつぶるしかない。むろん、積極的に目をつぶろうと思う。






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