Cold Mountain


コールド・マウンテン  (2003年12月)

南北戦争時代、ノース・カロライナ州コールド・マウンテン。新しい教会が建てられ、新任のモンロー牧師 (ドナルド・サザーランド) が娘エイダ (ニコール・キッドマン) と共に町に赴任してくる。エイダは町の若者インマン (ジュード・ロウ) と淡い恋仲になるが、それも束の間、インマンはその他の町の若者たちと共に、従軍して戦争に赴く。戦争は長引き、その間にモンロー牧師は他界し、ほとんど一文無しとなったエイダは、貧窮しながらもただインマンの帰りを待ち焦がれる。一方、戦場で怪我をしたインマンは、黙って病院から姿を消し、エイダの待つコールド・マウンテンを目指して一人歩き始める‥‥


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「コールド・マウンテン」は、97年発表のチャールズ・フレイジャー作の同名原作の映像化である。ニューヨーク・タイムズのベスト・セラー・リストでもかなり長い間リスト入りしていたという記憶があり、当然、ハリウッドがすぐに映画化権を買い取った。それがやっとお目見えしたわけだが、売れっ子俳優が身体が空くのを待っていたり、撮影時期を待っていたりと、実際の撮影までかなり時間がかかっている。基本的にスケールのでかいラヴ・ロマンスであり、監督のアンソニー・ミンゲラが「イングリッシュ・ペイシェント」でやったことの変奏という印象が強い。生命を賭した愛の物語というのが、ミンゲラが追及して止まない最大の関心事であるようだ。


とはいえ告白してしまうと、実は私はそれほど「イングリッシュ・ペイシェント」に感心しなかった口で、その後の「太陽がいっぱい」のリメイクである「リプリー」も、アラン・ドロンがやった役をマット・デイモンにやらせるという、どう見てもオリジナルに対する冒涜にしか見えない配役にうんざりしただけと、ミンゲラとはあまり相性はよくない。今回は話題にはなっているとはいえ、「ペイシェント」よりもかなり恋愛色が強そうな「コールド・マウンテン」に、一抹の不安があったのも事実である。


「コールド・マウンテン」は、田舎町で恋する者を待って過ごすエイダ (キッドマン) と、一人戦場からその故郷を目指して徒歩で歩みを進めるインマン (ロウ) を描く。インマンは負傷した後、たぶん脱走兵扱いとなって一人でコールド・マウンテンを目指すのだが、その辺で既に私はすごく違和感を抱いてしまった。だってこの二人、一応は恋人同士と思える関係にはなっているが、実際問題として、たとえお互いにいくらかの好意は持っているにせよ、それまで話したことは数回しかなく、別に将来を約束した間柄でもない。インマンが出征するという当日になって初めて、どちらかと言うとこちらの方が積極的なエイダがインマンの住居を訪れ、写真の乾板のようなものを渡し、ついでにその場で慌てて初めてキスを交わしただけという間柄でしかないのだ。


結局二人とも、お互いに愛してるなんて口にもしない。私に言わせてもらえれば、こんなの別に恋人同士でも何でもない。それなのにエイダはまるで自分一人がインマンの恋人のように振る舞い、インマンに向かってほとんど毎日のように手紙を書く。そして父が死んで、別に手に職を持っているわけでも何でもないエイダが、荒れる家で毎日の食事にも事欠いて、あろうことか戦場のインマンに向かって、帰ってきてと手紙を書く。ほとんど偏執的と思われても仕方のない行動で、まるでストーカー行為と紙一重だ。


いずれにしてもインマンも、だからといって戦場の軍人が簡単に故郷に帰れるわけがない。まあ、確かに彼は負傷して、願い出れば除隊という可能性もなくはなかったかもしれないが、彼はある日黙って病院から姿を消して、徒歩で故郷に向かうのだ。これって脱走行為じゃないのか? 軍人の敵前逃亡は死刑になっても文句は言えないんだぞ。それなのに、別に自分ですら愛しているかそうでないかもわからない者のために脱走兵扱いになるってか。ほとんど思慮に欠けた行為と見られてもしょうがあるまい。


その後物語は、山の中を一人行軍を進めるインマンと、コールド・マウンテンのエイダとを交互に描く。コールド・マウンテンでは、一人で暮らすこともままならないエイダの元にルビー (ルネ・ゼルウェガー) が押しかけ、住み込みで働き始める。一方インマンも、その行程で様々な体験をしながら、一歩一歩コールド・マウンテンに向かって歩みを進めていく。果たして二人はまた会えるのだろうか‥‥


実はここでまた、幾つものエピソードを重ねたインマンの行軍が有機的に繋がっているとは言い難く、なんか、TV番組の別の回を継ぎ足していったような印象を受ける。彼の行軍中のエピソードに登場する役者陣は、ジェナ・マローン、ナタリー・ポートマン、アイリーン・アトキンス、ジョヴァンニ・リビシ、フィリップ・シーモア・ホフマンと錚々たる面々で、これらのメンツを惜し気もなく垂れ流しで使う。しかも皆、もっと時間を書けて描き込めばすごく面白そうなエピソードになりそうなところを一瞬で刈り取っているために消化不良の感は否めない。若手のホープの一人マローンなんて、スクリーンに写る時間は正味1分もないのだ。これならエピソードを減らして重要なものだけに絞った方がまとまりもいいだろうに。


確かに各々のエピソードに少しずつ意味が付加されているのはわかるのだが、しかし、端折っちゃっても大勢は変わらないだろう。こんな感じで2時間半なら、エピソードを削って2時間にしてもらいたかった。作品を見ながら時計を気にする観客が少なくなる方が、結局は作品としても得策じゃなかろうか。こういう、エピソードをどんどん繋げていって、結局消化不良に終わるという映画をどこかで見たがなあと思ったら、「ロード・オブ・ザ・リングス」だった。「リングス」は現在パート3が公開中でわりと評もいいが、同様に「コールド・マウンテン」も評は結構いい。両者がゴールデン・グローブのノミネートでは作品賞を争っているのだが、そうか、要するに、この手の作品が受けるタイプと受けないタイプとがあって、要するに私は後者の方なのだ。なるほどねえ、なんとなくわかってきた。


しかしまあ、確かに見どころはないわけではなく、主演の二人は、感情移入できるかどうかはともかくとして、見事にはまっていると言える。ロウはハンサム度ではやはり最近の男優では1、2を争うという感じがするし、キッドマンもあと数年でこの役はできなくなるところを、ぎりぎり間に合った。ああいう、世間知らずのいいとこのお嬢さんを嫌みなく演じられるのは、人徳というものか。そのキッドマンを助けるルビーを演じるゼルウェガーは、こちらも大層誉められているのだが、実は、ただババくさくなったと思っただけだった。この映画に関しては、私の意見はことごとく批評家とは異なるなあ。


また私が最も意外に思ったのが、この映画の半分がノース・キャロライナを舞台としているのに、冬は非常に寒そうであることであった (町の名もコールド・マウンテンというわけだし。) 地図を見ると、実はNCの西側はアパラチア山脈の南端に引っかかるようで、だから高度もあり、内陸部であるということもあり、雪が降ってもおかしくはない。しかしニューヨークに住んでいると、NCというのは避寒地で、NYの冬の寒さを避けるために人々が訪れる場所なのだ。そこでも雪が降るなんて知らなかった。これはサウス・カロライナではあるが、大西洋側のマートル・ビーチなんて真冬でもゴルフができるってんで、NYのゴルファーの聖地みたいなところに思われてるのに。


結局「コールド・マウンテン」は、男の立場から見れば、キッドマンみたいな美人がひたすら自分のことを待っている故郷に帰っていけばいいという、それはそれで男冥利に尽きる作品であり、また、女性の側から見れば、いい男が自分の元に命を賭して帰ってくるのを待っていればいいという、女冥利に尽きる映画なのだ。もし人がロウと同じ立場に立っているとして、怪我をし、仲間も死に、ふと不安になった時に、故郷に帰ればキッドマンが暖かく迎えてくれるとなれば、うーん、世の中の男の半分くらいは脱走兵になるかもしれない。家に帰る男、それを待つ女、なんて、今時のフェミニズムに逆行する映画なんだが、それだからこそ今、この映画が受けているのかもしれないと思うのであった。







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