Chéri


わたしの可愛い人 -- シェリ  (2009年7月)

19世紀のパリ。かつて美貌として名を馳せ、数多くの男性と浮き名を流したものの、今では中年の域に達しているレア (ミシェル・ファイファー) は、あろうことか一回りどころか二回りも歳の差のある、シェリ (ルパート・フレンド) と恋愛関係に陥る。シェリはレアが特に親しくしているわけではない、どころかむしろ仇敵のペロウ (キャシー・ベイツ) の息子であったが、結局二人は6年もの間男女の関係を続ける。しかしペロウはシェリに資産家の娘エドミーとの結婚話を進めていた‥‥


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巷ではハリーとハーマイオニーに色気がつき始めた上にアクションが激しさを増した今回の「ハリー・ポッターと謎のプリンス (Harry Potter and the Half-Blood Prince)」は、これまでで最も面白いと評判で、実際予告編を見るとアクションはそれなりに面白そうに見えるのだが、それでもどうしても重い腰が上がらない。だいぶ前に一応原作を呼んでいるうちの女房が、アクションがメインになりだした「謎のプリンス」を、これならあんたでも読めるから読めとせっつくので、それまでのあらすじを抜粋でだいたい教えてもらった上で読み始めたのだが、なるほどとは思ってもやはり子供文学という以上の感興は特には持てず、しかもストーリー展開を知ってしまったために、よけいその映像化を見る気にならない。


さりとて「G−フォース (G Force)」はさらに子供向けだし、それでも気にならないことはなかったんだが、結局「ハリー・ポッター」も「G-フォース」もついでに「ブルーノ (Bruno)」も横目に見ながら、スティーヴン・フリアーズ演出、ミシェル・ファイファー主演の時代ドラマ「シェリ」を見に行ってきた。これだって騙し騙されの男女の駆け引き、上流階級のパワー・ゲームを描く、実は私が特に興味を惹かれる分野ではないのだが、フリアーズ、ファイファー、キャシー・ベイツという辺りの名前は、やはりハリー・ポッターという名前よりも気になるのだった。


それに、特に気になるジャンルではないとはいえ、この種の作品はいったん見始めると目がそらせなくなるのはなぜか。確かにコスチューム・プレイは目を楽しませる。本当のことを言うと、こういうしきたりや礼儀作法が先行して水面下でパワー・プレイが展開する時代ものは、まったく住んでいる世界が違うと感じさせるのだが、あまりに別世界の話で、目の前にあると見てしまう。どちらかと言うと、私にとってはむしろこの手の話はまるで別世界のSFものを見ているような感覚に近い。


おかげでこの辺の話に疎いのでまったく知らなかったのだが、「シェリ」はコレットの最高傑作として知られている物語だそうだ。とはいってもコレットで知っているのはヴィンセント・ミネリの「恋の手ほどき (Gigi)」の原作者ということと、「青い麦」の作家ということくらいで、「シェリ」なんてまったく初耳で、おかげで話が始まるまで、シェリというのはたぶん主演のファイファーが演じる主人公の名だとばかり思っていた。まさかそれがファイファーと恋仲になる、二回り以上歳下の男性の名とはまったく考えてもいなかった。シェリって男性名だったのか。


ファイファー演じるレアは、かつて美貌で鳴らしたが、今では中年の域に達し、自分でもそのことを自覚している。知人のペロウの息子シェリを見た時も、ハンサムとは思い、つい手を出してみたりもしたが、それでも歳の差は意識していた。それでもレアとシェリはよほどウマが合ったと見えて、そのままずるずると6年も関係を続けてしまう。その関係がついに終わる時が訪れる。シェリに逆玉とも言える格好の婚姻話が持ち上がったのだ。


いつかはこういう時が来るとは内心わかっていたとはいえ、頭の中で理解していたような気になっていたのと、それが現実のものになったのとは話が違う。わかりのよい歳上の女のように振る舞っていたレアが、シェリが他の女と結婚すると知った途端、ものわかりの悪いあばずれのような行動をとってしまう。自分でもみっともないとは思っていてもどうしようもないのだ。


それでも最後の分別を振り絞り、あるいはこれも駆け引きの一種なのか、レアはシェリを残して一人海外へと旅立つ。もうこれ以上ここへいても精神状態によくないことだらけだ。今度はいても立ってもいられないのはシェリの方だ。自分だってレアに惹かれていたのだ。そのレアが居所も知らせずいきなりどこへともなくいなくなってしまう。新妻をほっといてレアの住居を訪れ、召使いたちに鼻薬をかがせて行き先を知ろうにも、彼らにすらレアの居場所はわからない。シェリも自分でも思っている以上にレアに依存していたことをわからされるのだった。


そしてやっとのことでレアが帰ってくる。一日千秋の思いで待ったレアとシェリは、一時の間ベッドを共にし、すべてはまたもとの鞘に収まったかのように見えた... のも束の間、結局、二人は一緒になれないことをレアは今度こそはっきりと思い知らされるのだった‥‥


恋愛というものが人生で重要なものの一つであることは知っている。ある時はそれが生きる目的にすらなったりもするだろう。そしてある種の人間は、そこに駆け引きというパワー・ゲームを持ち込むことを喜びとする。あるいは、そういう風に生まれたとしか言いようがなかったりする。結婚や出産を目的としない恋愛至上主義は、若い時はいいが歳とってくると苦労するかもよという気もしないではないが、きりぎりすに冬に備えろと言っても意味がない。


とはいっても、彼らだってその社会での処世術は相応に身につけている。だからこそ働かなくても食っていけるくらいの身分でいられる。だから恋愛をパワー・ゲームとして楽しんでもいられる。それに深入りさえしなければ。そして結局、だいたい恋や相手を手玉にとっていると思っている者に限って最後は破滅するのだ。わかってはいてもだいたいそうなる。なんて人間って進歩しないんだろう。シェリだろうが「リバティーン」だろうが、最初からほとんど勝ち目はない。


一方、勝ち目はないといっても、それは相手に対してではない。向こうだって最後は同様に身を持ち崩したりしているのだ。ならば最後に勝ったのは誰か。それとも皆最初から負けるとわかっている勝負に身を挺しているのか。それはあり得るとも思うが、しかし、「危険な関係 (Dangerous Liaison)」のジョン・マルコヴィッチは単純にそういうパワー・ゲームを楽しんでいたな。しかしそのマルコヴィッチですら最後は負ける。あるいはだからこそ人は恋の駆け引きに引き寄せられるのかもしれない。


思うに、人は人を恋する時ではなく、嫉妬する時にこそ最も感情が昂るという気がする。要するに競争だ。純粋な恋愛感情ではないかもしれないが、だからこそ相手を一人占めしたいという欲望は強い。そして相手のことを一人占めしたいというのは、そこに第三者を意識した感情がある。自分の欲しいものを人にとられたくはないのだ。あるいは、人の欲しいものだからこそそれを横取りしたり一人占めしたりする時に感じる達成感、独占欲の満足こそが至高の喜びなのだ。パワー・ゲームの本質もそれだろう。本当に相手と一対一の対等の立場で向かい合ってこの人を愛していると思う時、独占欲ほど愛情と無縁なものはあるまい。


上で「危険な関係」を引き合いに出したが、もちろん「シェリ」はその「危険な関係」のスティーヴン・フリアーズが演出している。まったくお手のもんだ。その「危険な関係」でウマ・サーマン共々純な方の役だったファイファーが、グレン・クロースが演じたメルトイユ夫人的な役をここでは演じている。そのことこそが実は「シェリ」で最も印象的と言えるかもしれない。人は変わるのだ。


ファイファーはカメラが近寄ると以前より小じわが増えてはいるが、むしろ大人の色気は増しているくらいじゃないだろうか。この歳でまだこれくらい美貌を感じさせるのはさすがとしか言いようがない。私はどちらかというとスレンダー好みだが、彼女はもうちょっと肉がついたくらいでちょうどいいと思う。


タイトル・ロールのシェリを演じるルパート・フレンドは、オーランド・ブルームを連想させる顔立ちで、多少気の弱そうな、それでいてずるそうないかにもいいとこの坊ちゃんというようなところがうまく役にはまっている。その妻となるエドミーに扮するフェリシティ・ジョーンズもいいでき。ペロウ夫人に扮するキャシー・ベイツも、いつもながら嫌みな役をそつなくこなしている。


実はこの映画を見ていて、最後のクライマックスでレアとシェリが相対し、レアがシェリをなじり、シェリがレアに対して最後の捨てぜりふのようなものを吐こうとする、クライマックスのその瞬間に、上映中のフィルムがぶつりと切れた。さあ、シェリはいったいなんというのか、ここが正念場、と見てるこちらもつい身を前方に乗り出し、シェリが口を開きかけたのをまるで見計らったかのように、フィルムがぷつりと切れた。あまりにも絶妙のタイミングで、私同様半分程度埋まった劇場の誰もがスクリーンに向って身を乗り出した (に違いない) その瞬間に、フィルムが切れた。


もう、この時のあっという気持ちをなんと表現していいかわからない。あまりにも、本当に絶妙のタイミングでフィルムが切れ、場内が明るくなり、そしてしばらくして続きが始まった時、いかにも当然のごとく、そのシェリが言ったはずのセリフの後から続きが始まった。あまりのことに場内も笑うしかないという反応だった。私も怒るというより、あまりもの完璧なタイミングではぐらかされてしまったため、怒る気になんかなれなかった。狙ってやったとしたら誉めてやりたいくらいの絶妙なタイミングだった。長い間映画を見てきて、途中でフィルムが切れてイライラさせられたりした経験は何度もあるが、今回はむろんその最高峰だ。


クライマックスを反故にされたのだ、客の何人かくらいは怒ってリファンドしろと劇場側に詰め寄ったりするかと思ったが、あの自分の利権に敏感で怒りっぽいニューヨーカーが、まあこの時の客は歳の行った者が多かったからということもあるかと思うが、苦笑いしていても誰も文句を言う者もなく、素直に上映が終わった後は劇場を後にしていた。本当に完璧にすかされたために怒る気にもなれなかったのだろう。私もそうだったわけだし。あれだけ完璧のタイミングだったのだ、たぶん、これはきっとなんかの教訓だったに違いないと思うのだが、その教訓がなんだったのかは今のところまだ判然としない。








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