Casa de los Babys


カーサ・エスペランサ/赤ちゃんたちの家  (2003年10月)

南米のとある国で、それぞれの事情から養子をもらおうとしている、スキッパー (ダリル・ハナ)、ナン (マーシャ・ゲイ・ハーデン)、ゲイル (メアリ・スティーンバージェン)、レスリー (リリ・タイラー)、ジェニファー (マギー・ジレンホール)、アイリーン (スーザン・リンチ) の6人のアメリカ人女性がいた。しかし南国のお役所仕事は遅々としてはかどらず、事態はいっこうに進展しない。全員鬱々とした気持ちを抱え、ホテル住まいを余儀なくされたまま、ただいたずらに時間だけが過ぎていくが‥‥


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インディ映画作家として既に中堅どころか重鎮となった感のあるジョン・セイルズの新作は、静かな問題となっている、アメリカ人による発展途上国からの赤ん坊の養子引き取り問題を題材に描く。だいたい、発展途上国であればあるほど避妊法が普及してなく、若い時から懐妊して子供を産んで子育てに苦労するというのが多い。そういうところに限って堕胎を禁じるカソリックの国であったりするのでなおさらだ。一方、望んでも子供に恵まれない人たちというのも大勢いる。それが先進国に多いのは、家族よりも働く女性のキャリアを優先したりすることが多く、そのうちに出産適齢期を超えてしまうというのもあろう。


とにかく、そういう需要と供給が一致した結果、特にアメリカ人が南米やアジアからまだ乳飲み子を養子にとるという例は、年々増えている。しかし、そこはそれ、ただ金を出して物を買うのとはわけが違う。そこに様々な難問や誤解、行き違いやすれ違いが起こることはどうしても避けられない。どちら側も産まれてきた子の将来の幸せのために養子に出し、養子をもらうはずなのだが、すべてのケースが円滑に運ぶとは限らない。そこにドラマが生まれるわけだが、いつものことながらセイルズの着眼点はいいと思う。


元々セイルズは演出家としてよりも脚本家としての評価の方が高い。私もそう思う。セイルズの演出は、いきなり忘れた頃に派手にカメラが動き出したり、かと思えば退屈に思えるほどフィックスになったり、一定しない。そういうふうにスクリーンを見ていてカメラ・ワークが気になってしまうというのは、やはり上手とは言えない証拠で、逆にセリフでは英語力が完全ではない私が見てても、うまい言い回しだなあ、とか、洒落た会話だなあと思わせる部分は枚挙に暇がない。


しかし、前作の「サンシャイン・ステイト」では、群像劇ということもあり、個々のキャラクターのエピソードを描き込みすぎた結果、もうちょっと刈り込めば、すっきりと、ぴりりと香辛料の効いた佳品となりそうなものを、いたずらに長くなってしまった嫌いがあった。多分、自分でもそのミスに気づいたのではないだろうか、今度はこの「カーサ・エスペランサ」は、6人の主要登場人物、その上にさらに何人かの重要なキャラクターが登場し、そのいずれにも思わせぶりな過去や現在の生活をばらまいておきながら、上映時間は1時間半である。これは2時間半の「サンシャイン・ステイト」と較べると、いかにも短い。そして今度はその上映時間から受ける印象は、短すぎる、である。


だって、各々の登場人物の描き分けが終わって、さあ、これから事態はどう動き出すんだろうと思った途端、いかにも唐突に映画は終わってしまったので、私は呆気にとられてしまった。前回が前回だし、今回も群像劇でもあることだし、私はてっきり今度も2時間はあるだろうと思っていたのだ。だから最後、画面が暗転した時、まだ1時間ちょいくらいだろう、まさかこれでは終わるまい、しかし、それにしてはやたら間を持たせるなあと思っていたら、いきなりクレジットが流れ始めてしまったので、一瞬、虚を突かれてしまった。そんなのもあるわけ? 基本的にほとんどの女性たちの話はまだ途中で、一体彼女たちはこれからどうなるのか、これからが本番だろう。それなのに、話の途中で断ち切られてしまった。これじゃ消化不良だ。


とはいえ、いつものことながら、話自体は面白い。6人の女性の、誰が主人公というわけではないが、それぞれにそれぞれの背景があり、悩みがある。その女性たちだけでなく、彼女たちが泊まっているホテルのメイドが、やはり昔産まれた子を養子に出した過去を持つ女性であったりする。英語を解さない彼女と、スペイン語を解さないアイリーンが、それでもお互いに思っていることを話し合って気持ちを通じさせるシーンなんて感動もんだ。


そういう、それぞれに印象的な女性たちであるが、その女性たちに関係しているはずの男性 (もちろんレズビアンである場合を除いて) は、完全に画面から排除されている。夫や恋人であるはずのそれらの男性は、女性たちの間での会話の中にしか登場しないのだ。唯一、夫と電話で話すジェニファーにしても、相手の声は観客には聞こえず、結局、彼女らが家に残してきた男たちは、曖昧模糊としたままだ。その上、結局、子供は養子にとるわけで、これでは家に帰っても父親という存在は要らないのではないかと思えてくる。


映画に登場する主要な男性は、彼女らの養子の世話をする弁護士、スキッパーとジェニファーの町案内を買って出る無職の男と、やはり無職のホテルの女性支配人の息子、それに外泊を繰り返す不良予備軍のガキどもでしかない。この映画では、よくよく男というものは虐げられているというか、役に立たない性としてしか描かれておらず、私は見ていて、なんとなく所在ない気持ちを味わった。セイルズって、芯からのフェミニストというか、あるいはこの作品を描いている時は、なんか、男性という性に対してペシミスティックな思いを抱いていたのではないか。


それにしてもセイルズの映画には、旬の俳優が挙って出演しているという印象があるが、それは今回も例外ではない。アカデミー賞女優のマーシャ・ゲイ・ハーデンを筆頭に、まさに今が旬という感じのマギー・ジレンホール、さらにメアリ・スティーンバージェン、ダリル・ハナ、リリ・テイラー、スーザン・リンチと、セイルズならではの人選で、見飽きない。ほとんど予算があるとも思えないインディ映画で、しかも主要登場人物が何人もいるセイルズ作品に出演しても、ギャラなんて知れたものだろう。それでもセイルズから声がかかると、皆利益を度外視して集まってくる。こういう感じで業界内からも尊敬されている監督というと、他にはほとんど見当たらない。人徳というものだろう。







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