放送局: HBO

プレミア放送日: 7/8/2004 (Thu) 21:00-23:00

製作: ノトリアス・ピクチュアズ、HBOドキュメンタリー

製作: アンドリュウ・ジャレッキ、マーク・スマーリング

共同製作: リチャード・ハンキン

監督: アンドリュウ・ジャレッキ

撮影: アドルフォ・ドリング

音楽: アンドレア・モリコーネ

編集: リチャード・ハンキン

出演: アーノルド・フリードマン (父)、エレイン・フリードマン (母)、デイヴィッド・フリードマン (長男)、セス・フリードマン (次男)、ジェシ・フリードマン (三男)、ハワード・フリードマン (アーノルドの弟)


内容: ニューヨーク郊外に住むアッパー・ミドル階級のフリードマン家が、いかにして崩壊していったかの記録。


_______________________________________________________________


近年、マイケル・ムーアのかまびすしい運動により、ドキュメンタリーというジャンルが俄かに見直されてきた感がある。ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、ドキュメンタリー映画として史上最高の興行成績を上げただけでなく、今年公開の「華氏911」は、その成績をさらに上回る、1億ドルを超える興行記録を達成した。それ以外にも今年も既に「スーパーサイズ・ミー」、「ステップ・イントゥ・リキッド」等の注目作が現れた。


とまあ、このジャンルに脚光が当たるのは別にかまわないのだが、ムーアの作品は政治的であるがために、作品の内容、出来不出来とは関係なく注目された嫌いは大いにあった。本当に映画好きがムーア作品を見ているかというと、それは大いに疑問である。では、政治ではなく映画が好きな者がいったい何を見て、何がヒットしたからムーア作品とは関係なくドキュメンタリーというジャンルが見直されているかというと、私見では、一昨年から昨年にかけて公開され、注目を集めた3つの作品が、この小さなブームのきっかけとなっている。「スペルバウンド (Spellbound)」「WATARIDORI (Winged Migration)」、そしてこの「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」の3本だ。


その中でも「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」は、対象が子供たちでも鳥でもなく、同性の幼児愛好という隠れた趣味を持つ中年の男とその家族であり、さらにはその家族がまさしく音を立てて瓦解していく様を再構築した作品ということで、他の作品とは異質であり、そしてそのために最も注目されたと言ってもいい。


元々監督のジャレッキはビジネスマンで、映画予約サーヴィスのムーヴィフォン (Moviefone) を始めた人物だ。ジャレッキはムーヴィフォンを、当時 (1999年) まだタイム・ワーナーと合併していなかったAOLに3億8,800万ドルという金額で売却、一夜にして大金持ちとなった。この金によってジャレッキは、たぶんアメリカでただ一人、食うに困らないドキュメンタリー映画作家となった。現在でも、いくらアメリカとはいえドキュメンタリー製作者で懐に余裕があるのは、ジャレッキとムーアだけだろう。


そのジャレッキ、ティーンエイジャーの頃に、誕生日のパーティに赴いて子供たちを楽しませるピエロという、風変わりなアルバイトをしていた。それから数十年後、金もできて、さて、では映画作家として何を撮ろうかと考えていたジャレッキの頭に思いついたのが、この誕生パーティのお呼ばれ専門のピエロを生業としている者たちの、あまりよく知られていない小さなコミュニティだった。


通常、この種の仕事を一生の仕事にしようと考える者はほとんどいない。にもかかわらず、時には40という歳になっても、相変わらず子供のためのピエロによって口を糊し続けている数少ない人々が存在する。その世界をとらえることができるのなら、興味深いドキュメンタリーができるのではないかとジャレッキは考えた。そこでジャレッキは、ニューヨークで最も人気のあるお呼ばれピエロと連絡をとる。その人物こそが、「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」に描かれているフリードマン家の長男、デイヴィッドだった。


しかしデイヴィッドに関する調査を始めるに当たって、ジャレッキは難関に突き当たる。デイヴィッドは、自分の私生活についてほとんど口を開いてくれなかったのだ。ようやくのことでデイヴィッドの重い口を開かせたジャレッキは、80年代末、デイヴィッドの父が幼児虐待者として地元で大きく報道され、騒がれた人物であることを知る。そのことによって父と、さらには弟までもが実刑判決を受けて刑務所入りし、母は父を捨て、一家は崩壊の憂き目に遭い、父は獄中で自殺する。


最初、ピエロとしてのデイヴィッドに興味を抱いていたジャレッキの関心は、一挙にそういう家族の中で生活をしていた一人の人間としてのデイヴィッドの反応や行動にシフトする。しかもデイヴィッドは、当時普及し始めていたヴィデオ・カメラを使って、その時の家族の有り様を録画していた。この記録を最大限に利用し、当時、フリードマン家が一家の主の犯した犯罪により、どう影響を受け、どう反応し、そして、どういうふうに崩壊していったかを再現したのが、「キャプチャリング・ザ・フリードマンス」だ。


そもそもの発端は、ある日、フリードマン家に警察の手入れが入ったことから始まる。周知のようにアメリカは解禁国だから、成人男女がヌードやハード・コア・ポルノを見ること自体には何の罪もない。ただし、その対象が未成年だと話が別だ。大人に対して甘い反動ではあるまいが、就学児童や、さらにそれよりも低い年齢の子を裸にしてポルノの対象とすることに対しては、今度は社会は過敏すぎるくらい敏感だ。それは完全に法律に触れるばかりではなく、社会からも憎悪の対象となる。それでももちろん、そういうロリータやお稚児さん趣味の人間はいないわけではなく、多くの者が水面下に隠れているものと思われる。が、しかし、いずれにしても、子供に手を出すのは非常にまずいのだ。


フリードマン家の主アーノルドは、その児童ポルノが趣味だった。アメリカでは発禁のため、わざわざ北欧からその種の雑誌を取り寄せていた。それが当局の目に留まったのである。たぶん、アーノルドのように海外からそういうポルノ雑誌を取り寄せている者はアメリカ国内に何万人もいると思われるが、とにかく、アーノルドに白羽の矢が立った。アーノルドは当局の調査により黒という感触が濃厚になったため、家宅捜査が行われた。自宅から法に触れる雑誌が多数押収され、アーノルドは逮捕された。


そこまでなら、家族にとっても恥ずかしいことではあるが、ある程度わからないではない、普通の事件で済まされただろう。ところが、アーノルドが教育の程度が高い知識人で、そのような人々が多く住む、ニューヨーク郊外のロング・アイランドのグレイト・ネックという町で幼い子らにコンピュータやピアノを教える学習塾を開いており、その子たちに被害を与えていたかもしれないという可能性が、町中をパニックに陥れた。その結果、アーノルドのみならず、フリードマン一家が全員、スケープゴートにされてしまう。


しかもなお悪いことに、三男のジェシは、アーノルドのコンピュータ教室を手伝っていた。そのため、本当なら被害者のはずのジェシまで起訴されてしまう。裁判はフリードマン家に有利には進まなかった。町中が反フリードマン家のムード一色に包まれてしまい、しかも被害者は子供である。大人の顔色を読むことに長け、一方で誘導尋問にひっかかりやすい子供たちは、揃ってアーノルドとジェシに不利な証言を行った。


一方、家庭内部でも争いは続いていた。母のエレインはこれまでアーノルドを信用しきっており、まさか夫がそういう趣味を持っていることなど思いもしていなかった。裏切られたと感じたのは当然だろう。それなのに自分がお腹をいためて産んだ3人の子たちは、エレインがアーノルドに協力的ではないと言って責める。しかしこれだけの証拠が出ては、アーノルドが有罪なのは当然ではないか。ここはむしろ、進んでアーノルドに有罪を認めさせ、一方でジェシに情状酌量を図らせるように仕向けることが得策ではないかというのがエレインの意見だ。しかし、子供たちは、そんなのわざわざ罪を認めるだけだ、あんたは自分の夫が信じられないのか、こういう状況だからこそ家族が一致団結して立ち向かわなければならないんじゃないかと、エレインと対立する。渦中のアーノルドはだんまりを決め込み、彼を挟んで家族がそれぞれ勝手に怒鳴りあい、叫びあう。もはや家族の絆なぞない。


この作品のすごさは、デイヴィッドの撮った、その、嘘偽りのないフリードマン家の反応にある。幼児愛好家、もしくは幼児虐待者というものを身内に持ってしまった者の怒り、驚き、羞恥、さらに、アーノルドの息子たちの場合、その血を自分も引いているという逃れようのない事実。過熱する報道合戦、近づいてくる裁判、そして刑務所入りの恐怖、あるいは諦めや疲弊感、社会的プレッシャー、そういうものが一緒くたになってフリードマン家を締めつける。


さらに、こういう極端な状況に陥った時の各自の反応の差が面白い。たぶん、逃避反応の一つだと思うが、逮捕されたアーノルドが自分の非をある程度自ら認めているのに、息子たちがそれを認めようとはしないのだ。それを認めることは、自分たちが信頼し、尊敬していた人物像を崩壊させることに等しく、翻って、自分たち自身をも否定することになるのだろう。デイヴィッドは、アーノルド自身が、強制されたものではなく、率先してしたためた供述を認めようとはしないし、ゲイのアーノルドの弟ハワードも、アーノルド自身が、幼い頃、ハワードに対して性的ないたずらをしたと供述しているのに、そんな記憶はないと首を横に振る。そこになんらかの抑圧が働いているのは火を見るより明らかだ。なんでもアーノルドとハワードの母は性的に放縦な人物で、二人が幼い頃、始終異なる男を家に引きずり込んでいたそうだ。それがアーノルドの人格形成に大きく影響しているのは間違いあるまい。


そういう中で、血の繋がりという点では最も薄いアーノルドの妻のエレインが、真っ先にアーノルドの非を咎め、そしてかえって家族から反感を買ってしまう。見方によっては最も貧乏くじを引いていると言える。彼女に (たぶん) 非はないのだ。彼女が犯した唯一の間違いは、20年前、交際時にあまり結婚に積極的ではなかったというアーノルドに、結婚を強く迫ったのが彼女の方だったという、その選択の誤りだったと言える。最も早くから事実を直視し、それに対応しようとしたがために、かえって自分の息子たちから非難されてしまうエレイン。その後、彼女が家を出て行ったのも当然だろう。


結局、裁判はあらゆる点でアーノルドとジェシに不利に進み、結局、二人共有罪となってしまう。アーノルドが特に、自分の罪の巻き添えを食って有罪となり、人生を狂わせてしまったジェシに対してすまないと思っていたのは間違いなく、ある日アーノルドは、獄中で大量に薬を飲んで自殺する。彼の入っていた生命保険は、自殺の場合でも保険金が下りるもので、受取人はジェシに指定されていた。ジェシが出所した後に困らないようにとの配慮だった。


この事件は、少なくとも第三者の目から見ると、アーノルドは罪を認めているのに、息子たちと弟のハワードだけがそれに目をつぶっているように見える。とはいえ、その罪がどれだけ重いかというのは見る方によって差があり、学習塾でアーノルドに教えてもらっていた子たちは、少なくとも一人は、当時の大人たちの口車に乗せられて、ありもしなかったことを言わせられたと答えている。他の青年による現在の証言も、ひたすら疑わしく、まるで信憑性がない。噂に尾ひれがついて回っているために、どこからどこまでが真実で、どこからが虚偽か、誰にも事件の本当の姿が見えてこないのだ。刑務所までアーノルドに面会に行った弁護士は、面会中、アーノルドに、そばで同様に囚人に面会しに連れられてきていた子供の姿が自分を挑発するので、席を変えようと言われて絶句したと回顧する。それに対して、そんなことは嘘だと反発する息子たち。本当に、どこまでが事実でどこからが嘘なのか。いったい、誰の言うことを信用すればいいのか。


この作品は、題材となっているフリードマン家の崩壊を辿ることによって、そういう状況に陥った人間が辿る心理や反応をあからさまに提出して見せる。そのダイナミズムは、一度見始めると目をそらすことができない。そして結局、関係者が喋ったことの何が真実で何が嘘だったかなんて、今でもよくはわからないのだ。真実とはそれを真実と考える者の胸の中にのみ存在し、それは他人の真実とは相容れない。だからこそ葛藤や軋轢、摩擦が生じ、つまるところそこにドラマが生まれる。この作品が、昨年、ムーア作品を別にすると、最も話題になったドキュメンタリーであるということがよくわかる。


一つだけ気になったのが、実はそれを言ってはいけないような気もするのだが、幼児愛好のアーノルドの血を受け継ぐデイヴィッドが、子供の誕生パーティ専門のピエロとして現役で働いていることだ。そういった職についているということが、彼が子供好きであることを証明しており、そのこと自体にたぶんなんの含意もないのだろう。しかし、そこに、そのデイヴィッドの父のしたことが重なってくると、ことはそう容易には運ばなくなる。デイヴィッドになんの罪もなくとも、もし彼の父の経歴が明らかになった場合、人はその子であるデイヴィッドに、常に子供と触れる立場にいるピエロという仕事を頼むだろうか。答えは否だろう。そしてデイヴィッドが職にあぶれる結果になるのは目に見えている。たとえ欺瞞とか偽善的とか言われても、社会とはそういうものだろうし、私にもし子供がいたとしても、デイヴィッドに仕事を頼むことはあるまいと思う。しかし、そういう、デイヴィッドが子供好きであるという事実が、彼をニューヨーク一の人気ピエロにしていることもまた事実なのだ。うーむ、やっぱり人間って難しい。





< previous                                    HOME

 

Capturing the Friedmans

キャプチャリング・ザ・フリードマンス   ★★★1/2

 
inserted by FC2 system