Bruce Almighty


ブルース・オールマイティ  (2003年6月)

思わず窓口で、エクスキューズ・ミー? と言ってしまった。ジム・キャリーの新作「ブルース・オールマイティ」が人気があることは知っていたが、既に先週始まって、公開2週目に入る映画である。それなのに、まさか、切符が売り切れになることがあるなんて、まるで予想していなかったのだ。マルチプレックスの2館で上映しているとはいっても、次の回までは1時間もある。


他の映画も、「X2」「マトリックス リローデッド」も既にもう見てしまった。1館でしか上映していない「イタリアン・ジョブ」は次の回まで2時間待ちだ。まさか待つような羽目になるとは思ってもいなかったので、時間潰しのための新聞も本も持っていない。ただただ無為に1時間も潰すなんて、もったいなくてできない。私だって暇じゃないのだ。私は、じゃいいですと言って、すごすごと家に帰って、また出直す羽目になったのであった。


「マトリックス」ですら1週待ちで見れたのに、まさか「ブルース・オールマイティ」が2週待ちになろうとは。まあ、劇場側もここまで「ブルース」が受けるとは思ってもいなかったのだろう、「マトリックス」はマルチプレックスの3館で並行上映していたのに、「ブルース」は2館でしか上映していなかったからな、それで観客をさばききれなかったものと思われるが、しかし、ジム・キャリー、侮るべからず。


ニューヨーク、バッファローのTV局でレポーターとして働くブルース (ジム・キャリー) は、どうしても芽が出ず、キャリアの壁にぶち当たっていた。一緒に暮らす保育園の先生のグレイス (ジェニファー・アニストン) はそういうブルースをサポートしていたが、しかしブルースはどうしても成功したかった。世界は不公平だと神様に訴えるブルースに、ある日、神 (モーガン・フリーマン) が現れ、ならば自分が神様になってみるかと持ちかける。万能の力を持ったブルースは我が世の春を謳歌するが、もちろんそうはうまく問屋は卸さない‥‥


私は近年、ほとんどコメディは見なくなっているのだが、キャリー作品だけは別だ。作る側に回るとウッディ・アレンやファレリー兄弟のように、出演者には関係なく食指をそそられる監督もいるのだが、この俳優が出ているから見てみたいと思うコメディアンは、キャリーしかいない。彼のほとんどやり過ぎの身体を張った能天気でフィジカルなギャグは、爆笑とまでは行かなくても、見るだけでこちらの口元が緩んでくる。私の女房に言わせると、いい加減にしてくれということだが、好きなんだからしょうがない。


今回はそのキャリーが万能の神様になるというところが話のポイントで、既にこの設定だけで、成功は約束されているという感じがする。あのキャリーが神様なら、何かとてつもないことをしでかしてくれるだろう的な期待感を煽ってくれるのだ。さらに一般観客が、心の奥底で、自分が神様になって、世の中がなんでも自分の思い通りになるならどんなにいいだろうと思っていることを、キャリーが代わって具体化して見せてくれるのだ。この映画が受けたことがよくわかる。


そのキャリーのラヴ・インテレストになるのが、ジェニファー・アニストン。アニストンの最大の特徴は、主演級の知名度を持つスターであることにもかかわらず、引きの演技ができることにある。うまく相手を立てることができるのだ。「ロック・スター」なんてまさにそれだったし、「The Good Girl」でも、田舎の一主婦で違和感ない。ついでに言うと、実生活でブラッド・ピットと一緒に生活できるのも、彼女がきっとピットに対して引くことができるからという気がする。普通なら、大物スター同士の結婚生活なんて、まずうまくは行かないのだ。「ブルース・オールマイティ」もまさにその延長線上の演技で、キャリーを立てながら観客を味方につけることに成功している。


神様を演じるのはモーガン・フリーマン。アメリカ大統領だけでなく、ついに神様にまでなってしまった。あと、彼に残されている役はこの世にはもうないんじゃないのか。いずれにしても、掃除人兼任の神様役をやってもそれなりに観客が納得してしまう俳優というのは、確かにそうはいまい。聞くところによると、神様役をやった黒人というのはこれまでに数えるほどしかなく、白人が製作したハリウッド映画では初めてのことだそうだ。そのため、一部では上映禁止運動が起こったとか起こらなかったとか。心の狭い人間はどこにでもいる。


監督は「エース・ベンチュラ」、「ライアー・ライアー」に続き、今回がキャリーと組む3回目となるトム・シャドヤック。その3本ともすべて大ヒットしているところを見ると、最もキャリーと相性がいい監督と言っていいだろう。シャドヤックは前作の「コーリング (Dragonfly)」が不評なこともあり、やはり「マジェスティック」にあまり人が入らなかったキャリーと共に、二人で最も得意な分野に立ち返ってまたヒットを狙ったのがぴたりと決まったというところか。


アメリカで人気のあるコメディアンに必須の条件としては、人種の壁を越えて人気がとれることが挙げられる。黒人と白人、ラテン系やエイジアンでは笑いのツボが異なるのであり、ある人種に人気のあるコメディアンが、別の人種ではさほどでもないということが往々にしてよくある。例えば、黒人で現在断トツの人気を誇るクリス・ロック、ラテン系のジョン・レグイザモ、エイジアンのマーガレット・チョー辺りは、その人種内だけに限ると、本当に、これはもう圧倒的な人気で、たとえキャリーが逆立ちしようともかなわないと思われる。


しかしこれらのコメディアンの弱点は、いったんその人種の枠を越えてしまうと、人気はそれほどでもないということだ。多分白人にチョーの名前を訊いても、知らない人間の方が多いだろう。ところがキャリーの場合、そういった人種の枠を越えて一般的に人気がある。劇場に行ってみるとわかるが、コメディというのは本当に見る人を選ぶ。ロック主演の映画を見に行くと、観客席はほとんど黒い人ばかりになるし、レグイザモ主演の映画を見に行くと、周りはスペイン語が飛び交うことになる。それなのにコメディで人種と年齢層の区別なく人が入っているのを見ると、ああ、この人は人気があるんだなあということが実感できる。


例えば現在公開中のエディ・マーフィの「ダディ・デイ・ケア」には、黒人だけでなく、白人もエイジアンもラティノも家族連れで揃って見に行く。だからこそ「ブルース・オールマイティ」と同じく、興行成績で上位に入ってくるのだ。「ブルース・オールマイティ」では、私の前に座ったのは黒人の家族連れで、小さな黒人のガキがキャリーのギャグに大声で笑っているのを見ると、キャリーの笑いが普遍的なポイントを押さえているに違いないことを確信する。キャリーもマーフィも、共にもちろん失敗作にも出演しているが、それでも、今、人種と年齢に関係なく客を呼ぶことができるコメディアンというと、この二人が双璧だろう。


ところでキャリーは今回、「フレンズ」のアニストンとの共演で最大のヒット作を手中にしたわけだが、キャリーを一躍世界的スターとした「エース・ベンチュラ」では、やはり「フレンズ」のコートニー・コックスと共演している。次はもう、残るリサ・クドロウと共演するしかないと思うのだが。あるいはハリウッドのことだ、そんなことは重々承知済みで、既に次回作の企画が立てられつつあるのかもしれない。


作品中、神様がブルースに連絡をとろうとして、ブルースのポケベルに電話をかけてくる。そういう番号は通常、実際には存在しない市外局番、番号が使用されるのが普通だが、今回のこの番号は、実際にアメリ各地で現実に存在する番号をそのまま使用している。そのため、アメリカ中で、たまたま実際にこの番号を持っている家庭にかかってくるいたずら電話が絶えないということだ。この番号じゃなければいけない理由があったんだろうか。







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