Blindness


ブラインドネス  (2008年10月)

とある街で、突然車を運転していた日本人 (伊勢谷友介) が目が見えないと言い出す。善人ぶって男を助けた男や、診療した眼科医 (マーク・ラファロ) らも、次々と目が見えなくなる。なぜ目が見えなくなるのか原因は不明だが、強い感染力があるようだった。街はパニックに陥り、政府は目が見えなくなった者たちを隔離してなんとか事態を管理しようとする。その中で、なぜだか眼科医の妻 (ジュリアン・ムーア) だけはなぜだか目が見えなくなることもなく平常時と同じままだった。彼女は夫に付き添って、ただ一人目の見える人間として隔離棟に入って目の見えない者たちと共に生活を始める。そこでは新たなヒエラルキーが確立され始めようとしていた‥‥


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「ブラインドネス」はメキシコのアルフォンソ・クアロン、アレハンドロ・ゴンザレスらと共に、その力強い演出で台頭してきた中南米三羽烏の一人、ブラジルのフェルナンド・メイレレスの最新作だ。ある日なんの理由も前触れもなく突然人々が目が見えなくなるという状況に陥った世界を描く、寓話的ホラーとでも形容できそうな作品が、「ブラインドネス」だ。


目が見えなくなることを原因不明の感染病と考えれば、「ブラインドネス」の構造は近年流行りのゾンビ・ホラーと大差ない。「28日後」を筆頭に、「ドーン・オブ・ザ・デッド」「28週後」「アイ・アム・レジェンド」「ドゥームズデイ」等のゾンビ映画と「ブラインドネス」は、後者では人が死ぬわけではないことを除けば、人のゾンビ化とそれに脅える人々という構図と大きな違いはないと言える。


しかし「ブラインドネス」とほとんど同様の感触をもたらすほど近似している作品と言えば、それらのゾンビ・ホラーよりも、先頃公開されたM. ナイト・シャマランの「ハプニング」、そしてなによりも昨年のクアロンの「トゥモロー・ワールド (Children of Men)」だろう。ゾンビ・ホラーのように感染した者が別の者に襲いかかるわけではなく、目に見える恐怖の対象があるわけではないが (というかここでは見えないということこそが恐怖の対象だ)、世界に子供が生まれなくなったり、自殺に走ったり、目が見えなくなることで死と同等か、あるいはそれ以上にじわじわと恐怖感が迫ってくる。


目が見えないということが人々が毛嫌いする疫病のように描かれているということで、公開に際してはアメリカの盲人の協会のようなものがクレームを出していたが、ひとまずこれは当たらない。なぜなら「ブラインドネス」では目が見えなくなることはあくまでも将来の不安の暗喩として機能しているからで、直接盲人を蔑視してるわけではない。ただし、その盲人となることに恐怖を覚えるというのは、確かに盲人という立場を常態より劣ったものと見なしていることに他ならないため、そのことに対して盲人が苛立つのはわかる。確かにあまり趣味のいい問題提起とは言えないかもしれない。


しかしもちろん、普通に目が見えて生活している私自身から言うと、目が見えなくなるということは確かに恐ろしい。普通に日常の娯楽として享受しているTVや映画が見れなくなるということに対しては、確かに恐怖感を覚える。TVや映画、マンガの読めない生活というのは、想像すらできないのだ。


そういうことを別にして単に「ブラインドネス」という作品だけに目を転じた場合、視覚媒体の映画においては、その見えないというのをいったいどういう風に描写するのかという大きな興味を喚起する。登場人物の目が見えない場合、登場人物の視点から見た主観映像という描写ができないのはもちろんだ。それをやったらただの真っ黒か真っ白かになってしまう。因みにジョゼ・サラマーゴの同名原作では、邦題の「白の闇」というタイトルが示すように、見えなくなることは真っ暗になるのではなく、白いものしか見えなくなるのだそうだ。


いずれにしても、こういう障害が大きいからこそこれをやってみたいと思う作り手ももちろんおり、クエンティン・タランティーノが「キル・ビル」でやってみせた真っ黒描写だとかの、見えないことを逆手にとった演出というのも存在する。マイケル・ウィンターボトムも「トリストラム・シャンディ」で同様にスクリーンを真っ黒に塗りつぶしてみせていたりしたが、あれは原作も真っ黒に塗りつぶされていたらしいから、見えないことの視覚的演出というのとはちょっと違うか。


どちらにしてもこういう演出が一時しのぎ的な奇をてらった効果という印象を免れるものではなく、結局、やはり見せることで成り立っている媒体で見えないことを描くことは、構造的に無理がある。目が見えない者が主人公の北野武の「座頭市」やウッディ・アレンの「さよなら、さよならハリウッド (Hollywood Ending)」だとかでも、見えない者が主人公でも、彼ら自身は観客にははっきりと見えている。作品は見えない彼らの視点を描くわけではない。


その、基本的に見えない者たちばかりを見える者が描き、見える者が見ているという一方的な視線が「ブラインドネス」で特に違和感をもたらすわけでもないのは、そこにただ一人、医者の妻という見える者がいて、彼女が見える者と見えない者との仲立ちという役を担っているからだろう。彼女の目というフィルターを通すことで、目が見えない者を目が見える者たちの視点で描くことを可能にしている。面白いことにこの構造自体は原作でも同じなようで、結局、小説でも脳裏に情景を思い描きながら読むから、その状態を感じたり知覚したりするだけでなく、実際に見ている者の存在が必要ということなのかもしれない。百聞は一見に如かずというのは確かにあるのだ。


「ブラインドネス」はシリアスな作品であるが、生まれて初めて目が見えなくなった者たちの戸惑いを描くために、ところどころ笑いをもたらすシーンもある。全員目が見えないのにもかかわらず、多数決をとるために医者が、では賛成の者は手を挙げてというシーンなんかもそうだ。実は私にも似た経験があり、このシーンでそのことを思い出した。


私が働いているオフィスはマンハッタンの21丁目にあるが、23丁目の6番街と7番街の間には盲人の施設のようなものがあるようで、その辺をよく白い杖をついて黒眼鏡をかけた者や、盲導犬を連れた者たちが歩いている。ある時私が23丁目のサブウェイのプラットフォームで列車を待っていたところ、私が待っているのとは違う列車が先に来たのでやり過ごして次のを待った。そこへその列車から降りて来た白い杖をついた男性が歩いてきた。私が立っていたのはフォームの端の方で、私の前を通っていっても先には何もない。それで私は、ああ間違えたなと思って、男性が私の前を通る時に彼の腕をとんとんと叩いて、間違えてますよ、出口は向こうですと指差して教えてあげた。するとその男性は一瞬きょとんとした顔をして、ああ、とか言ってくるりときびすを返して逆方向に杖をつきながら歩いていった。


その瞬間に私も間違いに気づいたのだが、指差しても意味なんかまるでなかったのだ。映画で医者が、では手を挙げてと言った後に、これまででしたことで最もバカげたことだったと述懐するが、私もその時、なんか自分がとてつもないバカのような気がしたものだが、おかげで医者が非常に身近に感じたのも事実だ。人間って似たような間違いをするんだと、なんか意を強くした。「ブラインドネス」がなんかの寓意として人類に警鐘を鳴らすような作品であるということよりも、自分がバカげていることをしたりしながらも、なんとか正しいことをしようともがくマーク・ラファロ演じる医者の存在が、私に最も強くアピールし、身近に感じたのだった。


「ブラインドネス」はクアロンの「トゥモロー・ワールド」に最も似ていると上に書いたが、中南米三羽烏の一人、アレハンドロ・ゴンザレスの「バベル」も思い出すのは、そこに「バベル」同様日本人が重要な登場人物の一人として登場してくること、そして「バベル」の菊地凛子が、目が見えないわけではないが、そこでは聾唖という五感の一つに欠陥を持った人物として造型されていたことにある。「ブラインドネス」においては場所が特定されていたわけではないがどう見ても中南米の一都市で (実際にはブラジル、カナダ、ウルグアイで撮影されたそうだ)、おかげで中南米に対して日本人が親近感を持つことにまた一役買ったのではないか。私自身の経験から言うといまだにアルゼンチンの「ナイン・クイーンズ」の印象が強烈で、私みたいにスキだらけの人間は中南米には向いてないと思っているのだが、とにかく彼らの血の熱さにだけは見るたびに圧倒される。







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