Besieged

シャンドライの恋  (1999年6月)

「魅せられて」以来のベルトリッチの新作である。今、新作が封切られれば内容のことをまったく知らなくてもとにかく観に行かなくてはと思うのは、彼とエリック・ロメールくらいしかいない。それにしても最近のベルトリッチ作品の魅力を説明するのは難しい。ハリウッドで大作を撮ったかと思えばヨーロッパで小品を撮ったり、人間の幅が広いのかただ節操がないだけなのか、よくわからない。彼は映画ならなんでもよいんだと思っているような気がする。人々が挙って嫌った「リトル・ブッダ」にしても、ほとんど無視された「魅せられて」にしても、私は好きである。たとえキアヌ・リーヴスのブッダが失笑ものだとしても、リヴ・タイラーのおっぱい以外誰も話題にしなかった「魅せられて」にしても、擁護したい気分にさせられる。


「ラスト・エンペラー」を頂点として、ベルトリッチの作る映画はどんどん小粒になり、より私小説的に、私的になってきている。「シャンドライの恋」に至っては、ほとんどデビュー当時の作品に近いような肌触りがある。演出にしてからがそうで、少なくとも「魅せられて」まではなんとか作品を一つのまとまりとして提出しようとした力技が感じられたが、「シャンドライの恋」ではその意気込みは影を潜め、そこに見えるのはただ自分の感じたことを生のまま提出しようとする作家の姿勢のみである。そのため時として演出はほとんど素人臭くなり、時としてとりとめがなくなる。以前坂本龍一がベルトリッチは (撮影の) ヴィットリオ・ストラーロがいないと何にもできないんだ、というようなことを言っていたのをどこかで読んだ記憶があるが、「リトル・ブッダ」以来袂を分かったストラーロがいないこととやはり関係があるのだろうか? 坂本もそれ以来ベルトリッチとは一緒に仕事をしていないようだし。


ところで「シャンドライの恋」では、ローマに住むデイヴィッド・シューリス扮するピアニストが、アフリカの内乱を逃れてきた黒人女性に恋をし、彼女のためにすべてを投げ打って捕らわれの身である彼女の夫を助けてあげるという内容なのだが、実は私はシューリスの家財道具がなぜどんどんなくなっていくのか全然訳がわからず、最後のシーンで釈放された彼女の夫が玄関前に立ってエンド・クレジットが始まっても、それでも理解していなかった。訳がわかったのは映画を見終わった後に私の疑問を聞いた女房が説明してくれたからである。そうなのである。面白いと思って見ていながら私はまったく理解していなかったのだ。女房はまったく呆れていたが。


シューリスは初めて「ネイキッド」で見た時は宿無しのプータローというのがやけにはまっていて、本当にそういう人物に見えたのだが、今回はピアニストという役でもまったく違和感がなく、大したもんだと思った。欧米の役者には顔はいいのだが、指、特に爪が汚いとか、やけに詰まった爪で格好悪かったりすることが多いのだが、今回はそういうことがなく、シューリスの指がやけに繊細で、充分ピアニストに見えることがわかって意外だった。結構気になる役者である。 






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