Beasts of the Southern Wild


ハッシュパピー ~バスタブ島の少女~ (ビースツ・オブ・ザ・サザン・ワイルド)  (2012年9月)

この映画、現時点ではたぶん今年の最長ロング・ランを記録している。かなり前からタイトルだけは聞いたことがあると思って調べてみたところ、ニューヨークでは最初は単館みたいな感じで6月下旬から公開している。たぶんうちの近くのニュージャージーでは7月からしか公開していないと思うが、それでも2か月、しかしもっと長い間やっているような印象を受けるのは、今春のサンダンス映画祭、4月のニューヨークのニュー・ディレクターズ映画祭でも出品上映され、話題になっていたのがこちらの記憶に残っていたからだろう。


サンダンスでは見事にドラマ部門の栄冠を勝ち得たが、しかし正式コンペティション部門よりも、観客賞の方がより注目に値するというほとんどセオリーのようなものがサンダンスにはあり、実際にその通りだったりする。それで私もどちらかというと特別審査員賞と観客賞をダブル受賞し、現在予告編をあちこちで見るようになった「ザ・セッションズ (The Sessions)」の方が気にかかっていた。しかしこれだけロング・ランしているところを見ると、「ビースツ・オブ・ザ・サザン・ワイルド」も観客から支持されているようだ。


それにしても最近、これだけジャンル分けに戸惑う映画も珍しい。予告編を見ても実はこの映画、どういう作品なのかよくわからない。子供が主人公のようであるが、第一この子が男の子であるか女の子であるかもよくわからない。私は最初、女の子だとばかり思っていたのだが、うちの女房は、え、男の子でしょ、あれ、というし、なんかそう言われるとそのような気もしないでもない。


で、タイトルから察するに、その主人公の子が想像する怪物と夢のなかで出会うファンタジーもの、たぶん「かいじゅうたちのいるところ (Where the Wild Things Are)」が、感じとしては最も近い作品かと思っていた。ある部分ではそれは当たっているのだが、ある部分ではそれはまったく違う。


まず「ビースツ」では、冒頭で描写される主人公の子と父の、その貧乏さ加減にまずえっと思わされる。今時、それも正真正銘のアメリカ映画で、主人公は極貧なのだ。むろんアメリカにだってホームレスは山のようにいるし、毎朝毎夕通勤していてストリートを歩いていてホームレスを目にしない日はない。それでも、彼らは特に貧しい身なりをしているわけではない。着てるものはほとんどその辺を歩いている者たちと変わらないし、漂ってくる雰囲気はホームレスというよりも一時的な失業者という感じだ。要するに、彼らは二進も三進も行かないどん底という感じはしない。


しかし「ビースツ」の父娘は、本当に貧乏なのだ。最近、こういう貧乏な家庭を見たことがあったろうか。「スラムドッグ・ミリオネア (Slumdog Millionair)」は、確かに貧しい者たちを描いていたが、しかし前向きの明るさが貧乏を帳消しにしていた。「アンジェラの灰 (Angela’s Ashes)」や「シンデレラ・マン (Cinderella Man)」「幸せのちから (The Pursuit of Happyness)」、「ロゼッタ (Rosetta)」等で描かれる主人公は、貧乏とはいえ、最低限の文化的な生活を送っていた。


ところが「ビースツ」の父娘は、生まれた時から現在までずっと貧乏、しかもきっと彼らは今後も死ぬまでずっと貧乏、みたいな印象を濃厚に受ける。こういう印象を受ける登場人物は、実は故郷に帰る術のない「第9地区 (District 9)」のエイリアンくらいしか最近では記憶にない。人間じゃないのだ。


舞台は、たぶん南部の、ルイジアナとかその辺だろうとは思うが、場所は特定されているわけではない。デルタ地帯、とかバスタブ、なんて地名はあるが、それはむろん現実の場所を意味しない。カリブのどこかとも思ったが、家もなくなったハッシュパピーたちが強制的に連れて行かれる海向こうの陸地の病院は近代的な、白人が働いている病院であるところを見ると、カリブとも言い難い。やはり印象はルイジアナかフロリダ沿岸だ。


しかしアメリカという国家に与すると、いくらなんでもハッシュパピーたちがここまで貧乏で不衛生な暮らしをしていると自治体がほっとかないだろう。やはり舞台は架空の南の国のようだ。実際、後半になると話は手製の船に乗ったハッシュパピーたちが海原を漂流してよく訳のわからない場所を訪れたり、イノシシを大型化したような獣に出会ったりする。これらはハッシュパピーの心の中の具現化というよりも、ウィンク、引いては村に住むすべての住人たちの共同幻想の具現化のようだ。


結局彼らは一度限りの日々を謳歌しているように見えて、現実にはこの世界からの脱出を夢見ていたのか。まだ一人で生きていくだけの力を持たないハッシュパピーがいずれ大海原に出ていくことを夢想するのはよくわかるが、日中から酒を喰らってそれなりに自分で自分の人生を引き受けている島の者たちまで、実はこの生活を潔いものではないと思っていたのか。よくわからない。


こういう話、寓話は、底辺に意味、教訓を持っているのが普通で、例えば明らかに「かいじゅうたちのいるところ」には家族という絆が見え隠れする。しかし「ビースツ」は、単にハッシュパピーとウィンクとの父娘関係を描く話、やがて一人立ちするハッシュパピーの成長譚とか、あるいは冒険譚、もしくは実は未来ファンタジー、はたまたあるいは人種関係の比喩とかいって強引にジャンル分けするのは、なんか違うような気がする。場所も時代もよくわからない舞台設定で、ハッシュパピーがこの先どのような人生を送っていくか皆目予想がつかないからだ。


どうも監督のベン・ゼイトリンが狙っていたのはそれだけではないような気がする。あるいは、本当に何も考えずに、ただ撮りたいものを撮っただけなのか。などとつらつら考えながらこの項を書いている最中に、アメリカ北東部を大型のハリケーン、サンディが襲った。昨年大きな被害をもたらしたアイリーンをさらに凌ぎ、ニューヨークはほとんど麻痺状態になった。マンハッタンの南部は水没、停電、私の住むジャージー・シティの隣り町ホボケンもほぼ水中に没した。避難する人はカヤックやそれこそ一時しのぎの即席ボートで町を脱出した。これって、まるで「ビースツ」じゃないか。


さらにインディアン・ポイントの原発が水害で緊急停止したとかいう話まで伝わってきた。これまた堤防を爆破しに行った「ビースツ」と被る。なんだ「ビースツ」って寓話でもファンタジーでもなんでもなく、リアルなドラマだったのか。ただ時代を先読みしていただけか。感心することしきりなのだった。それにしても、原発がメルトダウンなんてことはないよな。インディアン・ポイントはマンハッタンまでたった50kmしか離れてなく、もしここがメルトダウンしたら、ニューヨークは全滅だ。なんだかファンタジーだと思えた設定がリアルな危機感を帯びてきた。









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幼い女の子のハッシュパピー (クヴェンザネ・ワリス) と父のウィンク (ドワイト・ヘンリー) が住んでいるバスタブは、南のデルタ地帯にある小さな島だ。ほとんど掘っ立て小屋の家はせいぜい夜露を凌ぐくらいの機能しか果たしておらず、家と呼ぶのが憚られるくらいで、しかもウィンクの健康は日増しに悪化しており、ハッシュパピーに当たり散らす。さらに氷山が溶けて島を取り巻く水位は上がり、島を襲った嵐はすべてのものを押し流し、ハッシュパピーたちはドラム缶を繋いで作った手製の船に乗り、あてどなく海原を漂うのだった‥‥


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